『人魚姫』 スタッフからのコメント


「人魚姫」演出に際して<「人魚姫」も水の話> 演出と制作総指揮・清水浩二

 幼い頃の僕は、雨が降り出すと招き寄せられるように外へ出て行き、裏井戸近くに隠している愛用の棒切れを取り出して振り回していた。落ちてくる雨を斬り続ける快感に酔いしれたくて・・・。
 その後、学校へ上るようになった或る日、遠足で滝を見た。轟々と音をあげて落下し続ける滝。呆然とそれを見上げている僕は、突然、滝の裏には果てしない蠱惑的な鏡のような広大な沼が隠されているに違いない。「見に行きたい!」と思ったが、その勇気も時間もなく、挫折してしまった。
 更にその翌年の初夏、僕の家に下宿していた大学生に案内されて十二キロ先へ海を見に行った。その時の怖れと感動。果てしない海。官能的に揺れ動き続ける波。素足にまつわりつく砂の快感。叫ぶ声をスポンジのように吸い取る広大な空間。予想もつかない海の水の量。人間の肉体の大半は水だというけれど、同じ水でも人間のなんと小さいことよ。
 以来、僕は水にまつわる物語や映画を見るようになった。メリュジューヌの伝説、ウンディーネ話、そして人魚姫。更には、ホフマンの「映像を売った男」。映画では「ベニスに死す」や「商船テナシティ」や「道」や「鳥」その他などなど・・・。
 だから海の中から始まり、海の近くの邸宅、波止場、堤防の場と、水と海だらけの寺山さんの「人魚姫」は、いつの間にか僕を魚人に戻し、大きな海で自由に生きて行けるようにしてくれるかもしれない、と密かに夢みている。


「詩のある舞台を」 台本・寺山修司
(劇団人形の家第1回公演「人魚姫プログラム」より転載)

「人形の家」ができました。
これはノラが出て行った人形の家の「人形の家」です。子どもたち、少女たち、そして若い母親たちがこのお芝居を見て、何か新しい世界に目を開き、べつの世界へ出ていければさいわいです。
ぼくは子どもの頃から人形劇が好きでしたので、これを通じて詩のある舞台、幻想と夢と音楽にあふれた新しい舞台作りをしたいと思っています。そして、これがこの時代に於いては、もっとも人間らしいものを快復するための一つの手がかりになるのではないかと自負しています。
「人魚姫」はその第一作というわけです。


「イメージの宝石の発掘」 人形と舞台美術デザイン・宇野亜喜良
(劇団人形の家第1回公演「人魚姫プログラム」より転載)

 人形劇の世界は、芝居を演じる俳優から始まって、なにからなにまですべてが作りものの世界です。そこでは、悲しい心や嬉しい心、夢の中の不思議な美しさにみちた風景や、恐ろしい光景、観念の中だけにある奇妙な世界といったような人間の内側を表にしてみせることができるのです。こんなふうに人形劇というジャンルには、イメージの宝石がいっぱい眠っているのです。


「人形劇とファンタシジー」  人形製作・辻村ジュサブロー(現・辻村寿三郎)

(劇団人形の家第2回公演「小さい魔女プログラム」より転載)

 人形に心あり、と誰か言って居ます。人形には心などあるのではなくて、只ウソをつく事が上手なだけなのだ。やわらいだ乙女心にさそうのも、少年の様な純朴な心にさそうのも、みんな人形たちが懸命にウソをついて居るからだ。そのウソが巧妙になればなる程、人間達は疑いもなくそれにだまされてしまう。
しかしそれは人間達がつくウソとは次元の異った心良い幻影世界なのだ。決してそれは罪でなく人形達の純粋な生命である。ファンタスティックなウソをつくかわいい妖精なのです。ひと口に人形と言ってもおしゃべり人形から文楽まで数多くの種類があり、その役割で多少の違いはあっても人形に変りはない。
 心良い幻影の世界と、ファンタスティックなウソのスパングルを、舞台一面にまきちらし、この瞬間を現実から離脱してしまう事こそ人形達の世界であり、それと同じく人形劇の生命ではなかろうか。
昨年、劇団人形の家から、人形製作を依頼されてぼくは初めて舞台の仕事をするチャンスにめぐまれた。人形劇と言えば、その幻影とファンタスティックを忘れたものの様に渾沌として居る。氷山の一角になるはずの人形美術の何であるかをさぐらなければ人形劇の発展はみられない。ヨーロッパの人形劇も数多く見て来たけれど、わずかパリのクラブで見た「ピエロの人生」ぐらいのものだった。人形の家の初演「人魚姫」以来この劇団の個性になったその幻影とファンタスティックが、人形の持つ生命を正しく伝えてくれるならばその発展をぼくは願って居るのだ。日本には文楽と言う世界でも類のないすばらしい人形劇がある事を忘れてはならない。しかし文楽とぼく達の間は、紋十郎のオモ使いも、蓑助の左手がなければその色気も変って来る事を知っていても、それはたんなるファン気質にしかすぎない。ぼくは文楽座の面師に弟子入りして初めて文楽とのつながりは、にわか文楽ではないと言う事を認識した。それに幻影とファンタスティックの王国である事も…。


「演劇に美しい夢を、舞台にファンタジイを、照明に無限の採光を・・・」  照明・田中恒雄
(劇団人形の家第2回公演「小さい魔女プログラム」より転載)

 「…何て美しくエレガントで、幻想的なお芝居だったでしょう!」とうつろな瞳で観客席を去って行くお母さん達の嘆声を未だに忘れることが出来ません。
 ゴーゴーだ、サイケだ、アングラだと騒がしい世の中に、せめて子供達に綺麗な夢を、と創り出された人形音楽劇「人魚姫」がその原作と相俟って、むしろ大人達の方に夢幻的な感銘を与えようとは思いませんでした。
 つまり、世の中の動静が如何なる状態に変化しようが老若を問わず、このファンタジイこそ人間の本性の求める普遍の心なのだと確信致しました。
 すべての芸術創造の中で私が一番好きな、そして得意とするファンタジックムード−−−照明とは芝居創りの最終仕上げをするもの、光を絵筆に小手先一つで無限に夢を、そしてイメージを発展させることが出来ます。それだけに採光の計算を誤れば効果逆転の憂目に合うのも簡単です。
 人形劇は、人間の劇では制約があって創り得ない、採光ムード創りの無限的可能性を十分与えてくれます。つまり人間劇では役者が劇中の人物でありながら役者個人としても観衆にアッピールしなければならないため、屡屡採光ムードを妨げ、当然かの如く創造の一端として役者個人のために不本意な照明を与えなければならないことがあります。私は6年程前、この点で思い悩んだことがありました。どうしても役者が邪魔で仕方がない。この不本意な制約から一度でいいから脱皮して見たい。それが光とオブジェと音だけのリサイタルとなって発表会をした訳です。そしてそれを持ってヨーロッパ迄一周しました。そんなことしたくなったのです。
 劇団の主宰であり演出家である清水浩二氏は「人形劇では人間の劇よりも美術家のイメージが、そのまま舞台に実在し得るかに見える」と云って居りますが、まさにその通りだと思います。人形劇では、照明そのものが他の作劇媒体に何等妨げられることなく、本来のイメージで舞台というキャンバスに絵の具を塗りたくることが出来るのです。それによって劇中の人形は益々解け込み、躍動する完全なる絵画の人物になって行けるからです。
 演劇に美しい夢を、舞台にファンタジイを、照明に無限の採光を、それが人形劇です。


人魚姫の制作にあたって 制作・高山英男
(劇団人形の家第1回公演「作品のご案内」より転載)

 本格的な人形芸術は、子どもだけでなく、おとなの鑑賞にたえうるものです。人形劇の人形のデザインや舞台の造形は、おもいきって抽象化したり、飾り立てたり、大胆にデフォルメできるだけに、俳優の演ずる舞台より、美しく幻想的で、詩的な舞台を創りだすことが可能なのです。
 私たちは、このような美しい人形芸術を創造しようと志し、レパートリーにアンデルセンの名作「人魚姫」を選びました。「人魚姫」は美しい人魚の少女とステキな人間の王子(今回の劇では、若い船長)との哀しい恋のロマンスをうたいあげることで、<愛の永遠性>を追求しようとした作品です。この名作を、現代感覚にあふれる詩人・寺山修司が脚色し、美の装飾画家・宇野亜喜良が人形と舞台をデザインしました。また舞台音楽では定評のある作曲家・林光が叙情的な旋律をつくりだし、それを「マクベス」の人形劇化で人形劇に新境地をひらいた清水浩二が演出して、すばらしい幻想劇を現出させようと試みるのです。