第12回   「渋沢龍彦氏のひとみ座批判(新しいクリエイティブ・ディレクション発見へのプロセス―その1)

清水浩二 Koji Shimizu


  一九五六年(昭和三十一年)五月に中江隆介作『絵姿女房』の試演会を、移転して間もない鎌倉市笹目にあった都築(元男爵)邸迎賓館二階のホールで催した。シャンデリヤ輝く四十帖ほどのホールには中村光夫先生、平野謙先生、本多秋五先生、乾孝先生、岩田宏さん(詩人)、渋沢道子さん(詩人)、矢野眞さんなども見えられた。明治中頃の洋館が三千坪の土地に建っている。その建造物に五月上旬の昼下がりに遊びに行ける。そういう好奇心からおいで頂けた人も多かったと思う。なぜって芝居の方は、余り芳しい声が聞けなかったので・・・。
 この『絵姿女房』という民話劇は、中江さんの台本、私の演出、人形は片岡昌、音楽は長沢勝俊さんで主人公杢蔵(もくぞう)の台詞は小山源喜、人形操演は須田輪太郎。女房おさくは台詞、人形操演共に中村愛子。殿様は台詞、人形操演共に宇野小四郎。製作は渡隆吉、秋田次男で、翌一九五七年の八月には品川公会堂(大井町駅前)で、劇団人形座の『つばめのくれた不思議なカボチャ』と共同公演(両作品ともコンクールに参加)している。

  その品川公会堂公演を渋沢龍彦さんがわざわざ観に来てくれた。その折渋沢兄より「辺さん(私の本名は渡辺なので)、一緒に帰ろう。」と誘われ、二人で鎌倉まで帰る車中、私と「ひとみ座」は渋沢兄から批判された。

  「まるでプークですよ。どうしたの辺さん?高山貞章さんの『きこりドンベエ』や中江隆介さんの『こやぎとおおかみ』をやったり、輪ちゃんの『お馬に化けた狐どん』の音楽は松村裕さん。そして今度は、中江さんの本に、長沢さんの音楽だなんて、しかもアキちゃんの人形も川尻泰司に似て来てるし・・・ファンだった僕としては、あの揺籃期の稚拙だったけど、オリジナリティがあってイキイキしていた頃が懐かしいよ。あの頃ボクよく観に行ってたでしょう?」
「ええ、ええ。」
「なんとか、辺さん、考えてみてくれない?ファンの一人として切ないよ。今の状態は・・・」
「言われてること、まったくの正論だと思う。ボクはバッサリ斬られて不思議と爽快な気分です。少し時間はかかるけど軌道修正して行きましょう。」

  だが、この渋沢批判に応えられるのには四年の月日を必要とした。それは『イワンが貰った金貨を生む小山羊の話』以降の私の創造性が動脈硬化をおこしており、私には新しい方向が見えなくなって来ていた点と、劇団の経済状態を安定させることに追われていて、急激な舵の切換えが難しくなっていたからである。でも、私は運が良かった。『絵姿女房』がコンクールで落選し、共同公演の人形座が入賞した。その為に渋沢批判は追い風を受ける形となり、私の中で盤石のものとなって行ったのである。

 「落選なんて口惜しいから、来年は必ず賞を取ろうよ。協力して!」と皆に言ってから、私は経営部の秋田次男と藤岡豊に読売児童演劇祭の審査員の先生方と東京児童演劇コンクール(現・東京都優秀児童演劇選定)の審査員の先生方の「児童演劇への抱負や、好きな児童劇の傾向」を調べて貰うことにした。・・・その結果、殆どの先生方がスペクタクルでファンタジックな美しくダイナミックな舞台を望んでおられることが判った。

上の写真は「寒さの森の物語」の宣伝用に掲げられた東横デパートの垂れ幕(1958年)
 「よーし!お手本はマルシャークの『森は生きている』だ。私がプロットとストーリー・アウトラインと様式を提案するから、コッちゃん、輪ちゃん、そして私の三人で台本を作ろうよ。」と言って承諾を得、私は物書きとなった。そしてネタとしてリトワニア民話を取り上げ、『イワンと小山羊』がコザック民話を土台にした時のように様々なものをそれに加えて行った。その様々のものの中には『森は生きている』からヒントを得たものやオストロフスキーの『雪姫』から頂いたものもある。タイトルは『寒さの森の物語』とした。
  こんな風にして創り上げた台本を私が演出。人形と装置は片岡昌、音楽は河向淑子、照明・片野保、舞台監督・長浜忠夫、製作は秋田次男、藤岡豊、仲谷茂生。キャストの主なところは、イワンに三井淳子、妹ナースチャは伴通子、若い兵士が須田輪太郎、王様は宇野小四郎、大臣は中村愛子で、一九五八年(昭和三十三年)の六月に鎌倉市中央公民館で試演会をおこなった。「ひとみ座創立十周年記念『寒さの森の物語』(二幕六場とエピローグ)公演」と銘打って。その後、東横ホールや各地の市民会館や文化会館、小学校講堂などでも上演し続け、念願の第七回読売児童演劇賞、厚生大臣賞、NTV賞などを受賞すると共に、夏の東京都児童演劇コンクール(現・東京都優秀児童演劇選定)では、優秀児童演劇賞とNHK賞を頂いた。
  この『寒さの森の物語』は、受賞後間もなく日本テレビ(NTV)から一時間三十分の枠で放送された。当日(九月二日)の読売新聞のテレビ欄には、写真入りで大きく紹介されていたし、毎日新聞には「テレビの夏休み番組を顧みて」の冒頭で学芸大学の辰見敏夫先生が「NTVの十時からの『寒さの森の物語』など夢幻的な美しさがあり、テレビならではの感を深くした。」と書いておられた。

  また、作家の飯沢匡先生からはお電話を頂き「テレビ拝見しました。一度清水さんとお会いしたいのですが・・・」と会見を申し込まれ、私は飯沢先生がやっておられるシバプロのスタジオでお会いした。その折に、ダークダックスの『あひるの国』への出演の話があり、私が「うちの須田という者の『お馬に化けた狐どん』で出演させて頂けるのなら・・・」とお答えすると、「ダークの四人と黒柳徹子が台詞と歌をやりますので、『お馬〜』を歌入り人形劇に出来ますか?」「はい、私が責任もって・・・」と答え、ミュージカル風の『お馬に化けた狐どん』の誕生となった。その潤色・演出は私がした。(「ひとみ座50年の歩み」には、「第一回あひるの国へ飯沢匡演出で『お馬に化けた狐どん』音楽劇として登場」などと出していたが、間違いである。第2回目の飯沢匡作『王さまは魔法がお好き』も飯沢先生はご自分では演出されず、私が演出している。また、第3回目「カスペルの冒険」となっているが、3回目はやっていない。)

  第1回目のあと、ダーク・ダックス所属事務所(金井事務所)が打上げパーティを催し、私は劇団代表として柳橋の料亭に招かれている。飯沢先生、吉永淳一さん、ダーク・ダックスの四人、黒柳徹子さん、谷内六郎さん、そして何故かサトウ・ハチロー先生もお見得で、私はダークのゲタさんに紹介して貰った。その席でチャックさん(黒柳さんのニックネーム)が、私を評して「名もなく貧しく美しい」と言ってくれた。以来、徹子さんとは何度かお話をしている。テレビ局内や劇場や人形の家の「人魚姫」公演の紀伊国屋ホールや川本喜八郎さんの会の会場などで・・・

『寒さの森の物語』が受賞したことによって仕事が増えて来た。それに気を良くして皆は「第二弾も打ち上げよう!」という気運になり、翌一九五九年(昭和三四年)の第八回読売児童演劇祭と東京都児童演劇コンクールにも参加することになった。
「基本的な考え方や劇構造は『寒さ〜』と同じでも良いが、舞台は北国から南国に移し、外見的には別の世界に見えるほうが良い。フィーリングやセンスはガラッと変えなくっちゃ・・・。私がプロットとストーリー・アウトラインと主題歌なども書くけど、コッちゃん・輪ちゃんも前の要領で頼みます。」「了解!」
 私は舞台をメキシコに設定し、モローズの老若の代りには悪魔と小悪魔を出すことにした。またイワンとナースチャの代りには少年ポポとロバのチャパを出すことにした。そして悪王の代りには大地主のコルドバ旦那を登場させる。無論、子分には、映画「シェーン」に出ていたジャック・バランスのような男や無精髭のデブ野郎など荒っぽそうな奴をゴロゴロさせる。テキーラを飲み、葉巻をくゆらせているコルドバは、通りかかったソンブレロにポンチョ姿の少年ポポの持っている魔法のバスケットに興味を示し、それを力づくで奪い取る。―――こんな具合に私は大枠を作った。そしてそれを叩き台にして三人で練り上げていったのである。「寒さ〜」と同じように。

「悪魔のおくりもの」の舞台写真
演出・清水浩二
人形デザイン製作・片岡昌

  一九五九年。この年は正月から忙しかった。一月四日から七日までの四日間、八ステージを『寒さの森の物語』で東横ホール公演をしたからだ。そしてそれが終った頃、突然、渋沢龍彦兄が、黒っぽい変った形の服を着た華奢で繊細そうなオカッパ頭に見えるヘアの少女を同伴して来た。綺麗な男の子と可愛い女の子といった風情の二人だったが、何しに来られたのかは判然としないような気がした。覚えているのは、その女の子を「矢川澄子さんです。」と紹介してくれたこと位である。矢川さんは実に愛くるしい。だが聡明そうな少女に思えたが、その後、他から聞いたところでは、その時(一九五九年二月頃)は、既に二十九歳の女性だったらしい。小柄なこともあり、驚く程若く見えていて、まるで童話の少女のような人だった。
丁度、この頃は『悪魔のおくりもの』の仕込みと稽古の最中で、あまりおもてなし出来なかった事を今頃になって悔いている。五月九日の東横ホール公演初日まで二ヶ月半位の時だったので・・・。この東横ホールのあとは五月十一日〜十七日の七日間を俳優座劇場で公演。この公演の時、千田是也先生と岩崎加根子さんが客席の一番うしろから観ておられた。それから、更に、五月二十七日、二十八日の両日は、再び東横ホール公演である。そして『悪魔のおくりもの』は、目標通り、第八回読売児童演劇祭で読売児童演劇賞、文部大臣賞、NTV賞を受賞し、東京都児童演劇コンクールでは優秀賞、NHK賞、更には厚生省中央児童福祉審議会推薦作品となった。
  無論『悪魔のおくりもの』もNTVからカラーで一時間三十分放送された。そのビデオ撮りの日は残暑厳しい上、初期のカラーテレビなので、カメラはバカでかい上、ライトの量がもの凄い。暑くて暑くて関係者一同グロッキー気味だった。そのV撮りの暑い中で、「うち(日本テレビ)で番組持つ気ない?」と打診があった。「来年(一九六〇年)一月からのシュートで、週六日放送の連続テレビ映画『冒険ダン吉』はどうです?」
  私は一応皆に相談したあとOKした。放送時間は毎夕6時50分から10分のベルト番組。2クール(二十六週)の契約である。私は主題歌の作詞をし、河向淑子が作曲、歌は上高田少年合唱団。レコード会社はキングレコード。シナリオは宇野小四郎、人形デザイン・製作は片岡昌と伴通子、美術は矢野眞と篠原有司男(ネオ・ダダ派の美術家で、赤瀬川原平などに近い人)と瓜生良介であった。この映画の声の出演も「ひとみ座」がユニットで受けることにした。だが予想に反して、私は否応なく途中からシナリオの援軍もさせられることになってしまったのである。
  この『冒険ダン吉』が七月末で終了すると、今度は待っていたようにNHKから『おかあさんといっしょ』の中の『ブーフーウー』(飯沢匡作、人形デザイン・土方重巳、音楽・小森昭宏で、毎週月、火放送)と金曜日放送の『仲よしおばさん』轟夕起子さんと人形達で展開されてゆく幻想的な可愛い番組。作家は小池タミ子、田中ナナ、牧野朝子の女性三人が交代で書いてゆく筈だったのだが、三作終った位から台本の弱さが問題になり出し、私もライターにされてしまった。その辺のことは第九回「映画スター・轟夕起子さん」で述べてある通りである。『仲よしおばさん』の人形デザイン・製作は片岡昌、音楽は桜井順さんだった。
以上のように、一九五八年の『寒さの森の物語』の受賞と一九五九年の『悪魔のおくりもの』の連続受賞によって、マス・コミの注目度は高まり、仕事も増え、経済的にも上向きになって来たのだが、創造面での新しい方向性は未だ打ち出せず、それまでの蓄積を使って目前の仕事をこなしているだけだったような気がする。

思い出のキャラ図鑑 NINGYO NO IE ARCHIVES