第13回   「『マクベスの演出』 新しいクリエイティブ・ディレクション発見へのプロセス―その2
清水浩二 Koji Shimizu


片岡昌氏デザイン製作の人形マクベスを手にした筆者

 「僕には前からやってみたいと思ってる物があるんだ。」
「なんですか、それ?」
「『マクベス』だよ。」
「え!?あの血みどろの暗い悲劇?!・・・『ロミオとジュリエット』とか『真夏の夜の夢』ならいいけど、『マクベス』じゃ児童劇コンクールには出せませんよ。」
「コンクールは、もう出さなくていいよ。」
「でも、ここまで育って来たんですから・・・。」
「出したいのなら出してもいいし、小学校上学年や中学の子に人形劇『マクベス』がどんなに良いものか、解って貰う為の話を先生方にしてもいいよ。東横ホール横の食堂に、視聴覚教育担当の先生方をご招待して、話を聞いていただこうよ。やってみない?ダンちゃん・・・」
 ダンちゃん(秋田次男)の努力でこれが実現し、私の話に先生方ものってくれ、ダンちゃんもすっかりやる気になってくれた。そして一九六一年の五月十六日から十九日までと、二十四日〜二十六日の計七日間、渋谷の東横ホールで『マクベス』公演と相成った次第である。

続いて夏の公演として、八月下旬に有楽町の第一生命ホールで四ステージ再演している。その再演は、五月の東横ホールの評判が良かったせいか満員が続き、私は座席に一度も座れなかった。それのみか千秋楽には杉村春子先生と新派の役者さんでテレビでもお馴染みの柳永二郎さんが、開幕した直後位にとび込んで来られ、席がないので立って見ておられたが、三十分位過ぎた頃になると、杉村先生のマネージャーさんが、「先生、もうスタジオに入るお時間ですよ。」と杉村先生に声をかけた。無論、小さい声でだが、私はすぐ近くにいたので聞き耳をたてた。すると、「うるさいわね!黙ってて!」と杉村先生は不機嫌そうにおっしゃった。だが、女の人は「でも先生、今日は本番ですよ。早く・・・」「うるさい!もう一寸だけ・・・」だが、女の人は少しすると涙声で「先生!お願いです!テレビ局へ行きましょう。もう二十分以上遅刻ですよ。・・・ね、先生!・・・」「しーツ!静かに!あと、二、三分で出ますから・・・」「はい。」
そして、言われたように、三分後には杉村先生は外へ出て行かれた。「もっと早く観に来るんだった。」の声を残して・・・。私はこの時、杉村春子さんほどの大女優の貪欲さに脱帽し、感動を覚えた。
それと、この再演の二日目には、宇都宮演劇鑑賞会の方からのお話があり、一九六二年の一月十三日(土)十八時三十分開演で、『マクベス』を第二十回例会とすることが決まった。また、ダンちゃんは読売児童演劇祭と東京都児童演劇コンクールの両方に『マクベス』を参加させて、その結果は『悪魔のおくりもの』と同様、読売児童演劇賞、文部大臣賞、NTV賞、最優秀賞、NHK賞、厚生省中央児童福祉審議会推薦を頂き、日本テレビ(NTV)からカラーの二時間番組として放送された。また『マクベス』を観に来られた有名人は安部公房、泉眞也、岩田宏、渋沢龍彦、寺山修司、中原佑介、谷川俊太郎、真鍋博、北村和夫、杉村春子、柳永二郎、武井昭夫、針生一郎、阿部進、長谷川竜生、青江瞬二郎、茨木憲、日下令光、乾孝、高山英男、勅使河原宏、早川元二、りん・たろう、石森章太郎さん達だった。これは私が確認した人々だけであるが・・・

「マクベス」舞台写真   演出・清水浩二 人形と装置・片岡昌 音楽・秋山邦晴
向かって左がレディ・マクベス(声・轟夕起子 人形操作・宇野小四朗)
右はマクベス(声・小山源喜 人形操作・須田輪太郎)

舞台下手に配置された巨大な目は、犯罪者のおそれる目撃者の目と、ひとみ座の"ひとみ"をダブル・イメージで表現している。

寺山修司氏は後日、劇団人形の家の第六回目の公演パンフレットに、この「マクベス」演出を評して「見た目はまったく等身大のように見えながら、その内部の空間がまったく等身大を倒錯しているというところが、清水浩二の人形劇をはじめて見たときからの驚きだった。」と書いている。


ところで、『マクベス』をレパートリーに上げるに際して、私は劇団の新しい創造方針を出さなければならないと考えていた。そして、その方向づけのポイントになるものは、「人形はモノである」から出発することだと思っていた。
「モノ」と言っても、「物体」「物質」の「物」もあれば、「人間の身替り」という"思い"の込められた人形(物)もある。また日本語の中にある「モノ」「もの」「物」も考えてみた。
「ものの哀れ」や「もの寂しい」や「もの悲しい」「物語」「もの静かな人」「ものぐさ」「もの好き」「もののけ」「ものものしい」「もの分れ」や「噴飯もの」とか「書きもの」「はやりもの」「ほんもの」などを見ると、「もの」とは、「なんとなく」とか「なにか」とか「なぜか」とか「思うこと」とか「心」とか「魂」とか「とても」とかが含まれているように思える。
すると、人形劇の人形の魅力は物体であることの面白さや長所と、「魂」や「心」を造型化した物としての魅力を基本として、人形操演者の憑依によるオーラを加え、時と所を越えた世界へと観客を誘い、共同体験をして貰えることが基本なのではないだろううか。
私は、そんな風に考え始めていた。だから『マクベス』の稽古の中で、マクベス夫人を演じている宇野小四郎の演技を見た時、「これだ」と感動したのだ。須田くんのガッチリした演技も魅力的だったが、「オリジナリティーが欲しいよ。」と言った渋沢兄の視点から見れば、宇野のレディ・マクベスの操演こそ、新しい今後の演技の出発点だったような気がしたのである。
その渋沢さんは、東横ホールに観に来て、片岡昌の人形の面白さと、宇野小四郎の演技の面白さ、そして私の演出の面白さを評価し、嬉しそうに帰って行った。

そう言えば、私は『マクベス』の片岡人形のことを記すのを忘れていた。『マクベス』の成功は、片岡の人形を除いては考えられない。『マクベス』の一寸前に、片岡は宇野の『盗まれた天文台』をやっており、その中で『マクベス』人形の方向性は既に顕われていた。更に言えばその前の『悪魔のおくりもの』にも、その兆候は出始めていたと私は思っている。
その頃、私共は安部公房に興味を持ち、花田清輝や岡本太郎に傾斜していた。そしてピカソを崇拝していた。そのピカソがアフリカの仮面や木彫像などに衝撃を受け、影響されたという伝説は余りにも有名であったし、岡本太郎さんがそのピカソに「日本にはアニメーション作家の大藤さんという優れた方がおいでですね。」と言われてショックを受けられたとか・・・。

そんな話が聞こえてくる中にあって、私は宇野小四郎と共に片岡に「ね、アフリカの仮面のような人形作って『マクベス』をやってみようよ。」「そして、音楽はモダン・ジャスとミュージック・コンクレートというシュール・リアリズム音楽をあわせて使ってみようよ。」
「どう?」
「面白そうだね。」
ダンモ好きの片岡はのった。

それに続いて私と宇野は音楽の秋山邦晴さんを口説くことにして、当時秋山さんのお宅があった明大前へ向かった。秋山さんは明大前駅近くの神社内の一寸オシャレな家に住んでおり、大きな犬を家の中に飼っていた。私と宇野が話をすると、秋山さんはすぐ話にのってくれた。いや、大乗りにのった!と言うべきだろう。私が「モダン・ジャズとミュージック・コンクレートでやりたい。」と言ったからかもしれないが、興奮気味に「やりましょう!」と言って貰えたその声には、傍にいた大きな犬も驚いた様子だった。
ここで話を人形美術に戻すが、『マクベス』の片岡の人形は、実に豊かで、かつシンプルに処理されており、とてもオシャレな感じだった。特に三人の刺客とか、レディ・マクベスなどはゾクッとする魅力を発散していて秀逸だし、マクベスのロボットのような体型や材質と光る目玉はミュージック・コンクレートに妙に合っていて素敵だった。またダンカン王のコロコロした色付き雪ダルマのようなシルエットもユーモラスで面白かったし、魔女ヘカティの青っぽい裸身がモダン・ジャズをバックに動く色っぽさは、沢山の人々をシビレさせていた。
ここで見せていた造型のシンプル化と豊富なキャラ創出の才は、その後の『ひょっこりひょうたん島』のロクロを使ったスッキリさと、モダンなセンスと豊かなイメージによって上質で楽しい人形劇世界に発展させていると言っても良いだろう。

下記は一九六一年公演の『マクベス』のスタッフとキャストの主なところである。

【スタッフ】
W・シェイクスピア
倉橋健
演出 清水浩二
人形・装置 片岡昌
音楽 秋山邦晴
照明 滝尾輝雄
舞台監督 長浜忠夫
演奏 北村英二、八木正生、
渡辺貞雄、高橋悠治、その他
宣伝美術 矢野眞
キャッチフレーズ 岩田宏
製作 ねぎしずま、秋田次男、
藤岡豊、松本辰彦
     
【キャスト】
マクベス (台詞)小山源喜 (操演)須田輪太郎
マクベス夫人 (台詞)轟夕起子 (操演)宇野小四郎
ダンカン王 (台詞)中江隆介 (操演)並木敏夫
マルカム (台詞)藤井重良 (操演)成井異人
バンクォー (台詞)高山正也 (操演)村上良子
マクダフ (台詞)二瓶秀雄 (操演)南波郁恵
マクダフ夫人 (台詞)三井淳子 (操演)三井淳子
刺客1 (台詞)二瓶秀雄 (操演)二木並子
刺客2 (台詞)並木敏夫 (操演)並木敏夫
刺客3 (台詞)須田輪太郎 (操演)小野徳治
侍医 (台詞)宇野小四郎 (操演)村上良子
使者 (台詞)石田昌男 (操演)佐久間潔子
ロス (台詞)木谷省三 (操演)小野徳治
小シーワード (台詞)長浜忠夫 (操演)伴通子
門番 (台詞)中江隆介 (操演)三井淳子
妖婆1 (台詞)越谷和子 (操演)三井淳子
妖婆2 (台詞)吉行知子 (操演)伴通子
妖婆3 (台詞)金井佳子 (操演)二木並子
ドナルベイン (台詞)成井異人 (操演)田中正子
 







1961年労働者演劇観賞会の情報誌(労演ニュース)への掲載原稿より

「マクベスと人形劇」    清水浩二

 マクベスという男には視覚的な想像力がある。その範囲はそう広くはないが、強烈である。「マクベス」という戯曲の中で重要な存在の妖婆も、マクベスの心の中の視覚化されたものである。

 ぼくが、「マクベス」を人形劇で演ってみたいと考えたのは、このような心の中のものを視覚化することが指定箇所以外でも出来るし、それは「マクベス」という作品を傷つけることにはならないと思ったからである。別な側面からいうと抽象を具象化するということは人形劇の特性に合致することであり、「マクベス」を人形劇に適した素材と感じたということなのである。

 たとえば、マクベスは王を暗殺しても幸せになれないと思いつつも、王を殺すコースを走り続ける。暗殺を思いとどまることは自分を殺すことになるので、心も重く王暗殺へと足を運ぶ。その時私は、無数の短剣を出現させ、マクベスを包囲、彼を王の寝室へと追いやるといった表現をとった。マクベスの心の中を視覚化した一例である。

      「マクベス」舞台写真
      3人の刺客たちがバンクォーを待ち伏せする場面

 また、王を暗殺した直後にマクベスが聞いたという「マクベスは眠りを殺した。だからマクベスはもう眠れない」という幻聴---これをマクベスが夫人に話すとき、大きな目玉を宙に出し、無気味な光を放たせることにした。これは、「眠り」といった時に誰しもが描く視覚的なものが目であることと同時に、マクベスには人間の目が一番怖しかったろうとの理解から考えたことである。殺人者にとって一番気がかりなのは、目撃者の目の有無なのだから…

 また、マクベス夫人が目を開けたまま眠り、手を洗う仕草をする。この夫人狂乱の場では、夫人の目に赤い電気をボンヤリとともらせた。そして、夫人がいくら手を洗ってもシミ(血)がとれないので「消えてしまえ、いやらしいシミ!」と叫ぶと、手が体から離れて空中を飛ぶ。だが、宙に浮いた手とは別な手を直ぐに夫人の目の前に登場させる。その手にも血がついている。夫人は絶望的に呻き、頭をかきむしる。すると、次から次へと手が現われ舞台は手で一杯になる。これは罪の意識にさいなまれているマクベス夫人の精神状態を視覚化した表現である。

 以上は「マクベス」という戯曲を人形劇で表現する場合の例であるが、この例からも想像出来るように、「マクベス」は人形劇の独自な表現と強く結びつくファクターを多有している。無論、妖婆の動きやバーナムの森が動くところなどは人形劇では料理しやすいところだ。でも、ぼくにはそれよりも、反秩序のシンボルである妖婆に魅かれながらも、それになり切れない罪の意識を持った人間の悲しさと滑稽さを、造られた物である人形の滑稽さと、人間に操られなければ動くことの出来ない人形の哀しさと---この二つの人形劇の性質---を生かしながら表現出来たらと思っているのである。

 その場合、登場人形を「モノ」として扱いながら、その人物の動きを表現する新しい演技の方向が望ましいことはいうまでもない。そしてこれは、今回の人形のマスクが古典的仮面をモチーフとしていることと同様に「嘘らしい本当」を生命とする人形劇の本来あるべき姿だと考えているのである。


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