思い出のキャラ図鑑

   第14回「花田清輝さんと安部公房さん、そして中原佑介さん、廣末保さん」
清水浩二 Koji Shimizu


 あれは「マクベス」再演後の一九六一年の九月頃だったと思われるが、草月アートセンターの発案で、花田清輝さん、安部公房さんと、私共の清水浩二、宇野小四郎、須田輪太郎、長浜忠夫の四名が会談することになった。所は青山の草月会館(現在も場所は変わらないが建物は新しくなっている)の二階にあったミーティング・ルームである。時間は午后二時位からだったように記憶しているが・・・自信はない。

  話の口火を切ったのは花田さんで、私の差し上げた『マクベス』のプログラムの「演出のことば」を読み終えると、私をグッと睨むように見据えて「あなたって、仲々挑発的な文を書くね。」と言われたが、私は「そうですかあ・・」と体を躱した。
花田さんは一寸拍子抜けした様子だったが、私としては、あの大論客と渡り合う自信はなかったので逃げたのである。
すると、花田さんは、安部公房さんに「安部君の『砂の女』ね、あれを人形劇でやると面白いと思うが、どうだい?」
「いや、花田さん、『砂の女』は動く砂なしには成立しない話なので、砂の動く様子を観客に示し、知って貰わなければなりません。その意味では映画が最も適しています。それで、ここの宏さん(勅使河原宏さん)と映画化を進めているんです。」
すると花田さんは「俳優座劇場にトラックで砂を運び入れて、その大量の砂の中央に擂鉢状に穴を開けて、その大きな穴の中の小さな家に裸の男女がいる。それを観客達は二階客席から見る。これって大ヒットすると思うがな。」
「いや話題性はあるが、面白くはならない。」
「面白いと思うんだが・・・」

  この花田、安部のやり取りは面白かったが、私は実現は不可能と思ったので嘴を入れた。
「実現出来たら面白いと思いますが、二点で不可能だと思います。ひとつは、劇場側が大量の砂をステージ上に運び入れることに反対することと、それがクリア出来ても砂の代金と運搬費などを考えると、小さな劇場の二階のみの入場料収入では大赤字間違いありません。だからってスポンサーをつける冠公演を考えても、人形劇ではスポンサーが付かないと思います。したがって、話題を変えてみてはどうでしょう・・・?」

  こうして話は、あっちへこっちへアトランダムに移行し、色々な話題が出て楽しかったが、その中で私の印象に残ったものを少しだけ挙げると、安部さんが蜂の子の缶詰が大好物だったが、ある時、蜂の子ではなく蛆虫のインチキ缶詰を少々だが食べた話とか、花田さんが『不思議の国のアリス』は超現実主義作品ではない。錯覚する人もいるようだが・・・」と発言されたり、草月アートセンターの井川宏三氏と同席していた塩瀬宏さん(残酷演劇で世界に名を馳せたアントナン・アルトーを学びにフランスに行っていた舞台演出の研究家)の「在仏中に世界人形劇フェスをルーマニアに観に行ったけど、面白いものはひとつもなかった。」という話や、安部さんの『幽霊は生きている』や『少女と魚』の話などもしたと記憶している。

  このミーティングの後日(たしか一九六一年の十一月頃)、私は宇野小四郎と、安部さんの調布のお宅へ『少女と魚』の上演許可を貰いに伺ったが・・・
「勘弁してよ。もう古すぎて恥ずかしいから・・・。代りに人魚の出てくる新しいのを書くよ。」
そう言われて、我々二人はそのまま帰宅したが、その新しい作品は一九六二年二月の「俊英三詩人の書下しによる人形劇」が終わって三ケ月近くたった五月発売の「文学界六月号」に発表された。題して『人魚伝』百三十枚。戯曲ではなく小説であった。「あの小説を中原佑介くんに戯曲にして貰っているから・・・」と安部さんから連絡を受け、出来上る日を首を長くして待った。

  そして四ヶ月位した時だったと思うが、連絡があり、「帝国ホテルのロビーで・・・」というので、約束の午后二時に帝国ホテルに行くと、安部さんは来ておられたが中原さんの姿は見えない。
「取り敢えず、お茶でも飲んでいましょう。」と二人は、コーヒーを注文した。すると、安部さんは「清水さんには言ってなかったけど、中原君って遅刻の常習犯なんだよ。」
「どの位遅刻されるんですか?」
「平均すると一時間位かなあ。」
「一時間も!?そんならこちらも一時間後に行けば・・・」
「でも、時には十五分遅れ位の時もあるし、二時間遅れの時もあるので・・・僕は性格的に遅刻が出来ない質なので・・・中原君の勝ちだね。」

それから一時間以上たっても中原さんは見えない。その間に私は、一九五九年五月十一日からのNHKラジオの帯ドラマ『ひげの生えたパイプ』の話や『砂の女』の映画の話や『幽霊は生きている』の田中邦衛さんの話や安部さんの愛妻で美術家の安部眞知さんの話など随分沢山の話を聞いた。無論、『マクベス』の劇評も改めて訊ねたりもしていて、私には至福の時であった。だから中原さんが見えられた時には、「人魚伝」の打合せのことなどすっかり忘れていた。

  それはそれとして、中原さんの書かれたその『人魚伝』という戯曲は、劇団の事情により、結局は上演されなかった。今にして思えば、あの『人魚伝』には、当時の空気が一杯入っていただけに、惜しいことをしたような気がしている。

 これと同じようなことが再び起こった。一九六二年十月頃、東中野にお住いだった法政大学教授の廣末保先生にお願いして「新版四谷怪談(うらおもてよつやかいだん)」の執筆を進めて頂いていた。翌年(一九六三年)の六月頃に脱稿されたので原稿をお借りして劇団の何人かと拝読後、ミーティングした結果、「気が進まない」という声が多かったので、しばらく明確な意思表示をしないでいた。そのことに先生は不満だったのだと思うが評論家の武井昭夫さんを介して「発見の会の瓜生良介さん達が、とても演りたがってるので演らせたいと思うが、どうだろう…?」と言われ、私は「もう一寸検討させて頂きたいが、先生がそう仰言るのなら残念ですけど…」ということになってしまった。

  こうして、またもや上演するチャンスを逃してしまった。
しかし幸運にも、後年(「劇団人形の家」になってから)私は廣末先生と鶴屋南北の「桜姫東文章」でご一緒し、とても良い結果が出た。

早稲田小劇場稽古場にて撮影
写真左より 廣末保氏、筆者
 私共のために執筆して頂いたのに上演できなかった作品を思うと、今でも口惜しく何かやり残したような気がしてくるので、あえてここに記しておくことにした。


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