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清水浩二 Koji Shimizu |
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そしてとうとう決められないまま、シュートの日を迎えてしまった。それから三日後、黒沢良さんからスタジオに電話が入って、「まだ中学の女の子ですが、監督さん聞いて頂けますか?」 「はい。」 「じゃ、その子とかわります。」そして瞬時の後、「お電話変りました。藤田淑子です。『伊賀の影丸』の影丸を読んでみます。」 そう言って読み始めたのを聞いた途端、私は「いい感じた!いけそうだぞ!」と感じたが、「もう少しは聞いてあげないと…」と早る心を抑えて聞いた。 そして、トコちゃんこと藤田淑子さんに影丸の声をお願いすることにした。 この時以来、私はトコちゃんとは何本もの作品をやっている。 『伊賀の影丸』は作品としては成功し、反響を呼んだ。その辺のことを、アニメや人形の映画の評論家である森卓也さんが一九六四年(昭和三十九年)にお書きになった「映画評論五月号」の中から一読して頂けると有難い。
以上の如く『伊賀の影丸』の評判は悪くないのだが、やればやる程劇団からの持出しが増えてゆく。「なんとか手を打たなくては…」と考えた私は、「TBSと掛け合って、もう一本製作費の高い仕事を貰い、その中の一部を『伊賀の影丸』の赤字補填に廻そう」と藤岡さんに言った。
こうして出来たのが『東京ムービー』というアニメ映画会社である。その社名は私が付けたことは、第10回「藤岡豊さん」で既に述べた通りである。 この「東京ムービー」の誕生は余りにも急激だった為、事務所は赤坂TBSテレビ一階奥のスタジオへの廊下右にある広い部屋を借りる形でスタートした。 一九六四年(昭和三十九年)の六月頃であったような気がする。(登記その他のことは、私には解らない。)その時の会社の顔ぶれは、社長の藤岡豊の他では、製作本部長という肩書きの久保田美昭さん。たしか常務だった高橋澄夫さん。製作の稲田伸生さん、郷田三郎さん。石狩のペンネームの久保田文芸部長(のちに部長は佐野美津男氏)。社長秘書は日銀にいた豊田由紀子さん。社員ではないが出入りしていたアニメ関係者は、角田次郎さん、村野守美さん、木下三さん、出崎統さん、月岡威さん、渡辺和彦さん、岡本光輝さん、鈴木英二さんといった人々だった。少したってからは今泉俊昭さん、波多正美さんなども見かけたし、山野浩一君、小沢正君、大隈正秋君なども参加していたようである。 TBSのテレビ局舎はたしか八月いっぱいまでいて、事務所はその後、西新宿七丁目のビルに引越した。製作スタジオの方は杉並区成田東四丁目にあった町工場を借りたようである。(このつづきは、またあとで…)
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