思い出のキャラ図鑑

           第19回「ロサンゼルスの思い出1 ロイドの藤岡邸とサッちゃん(常田幸子さん)」
清水浩二 Koji Shimizu


1."リトル・ニモ"のプロジェクトチームに加わる

 一九八二年十月十九日から一週間のロス行きに始まり、一九八八年三月一日〜十日の十三回目(最終回)までの足かけ七年間の私のロス滞在延日数は、五ヶ月。

 このロス行きの目的は、東京ムービー新社社長・藤岡豊氏の依頼を受けた『リトル・ニモ』のクリエイティブ・ブレーンの仕事の為である。


1982年に撮影したロイドの藤岡邸の写真

ロイドの藤岡邸の写真→

 では、その"リトル・ニモ"とはいかなる物かと言えば、一九〇五年十月十五日から一九一〇年十二月二十五日まで足かけ六年にわたってニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙日曜版(カラーページ)に連載されたWinsor McCay(ウインザ・マッケイ)の"LITTLE NEMO IN SLUMBERLAND"(「まどろみの国のリトル・ニモ」)というマンガを原作とした日米合作アニメーション映画(劇場用)のタイトルなのである。

 この"リトル・ニモ"を映画化すると良いと強力に薦めたのは、当時、講談社の「少年マガジン」編集長の内田勝(うちだまさる)氏であることを記しておこう。

  私がロスに行った初めの頃、藤岡さんは、ビバリーヒルズ東端に隣接するロイド(Lloyd)という閑静な所に住んでいて、私はその藤岡邸に泊まっていた。

 因に藤岡邸のその頃の住人は、藤岡さんの他に、秘書兼通訳の常田幸子さん(サッちゃん)と賄方の永野さんと娘の香織ちゃん(UCLAの学生)が住んでいた。他に連日通って来る書生兼雑用係の平子(ひらこ)ちゃんという少したくましい男性もいた。が、しばらくすると永野さん親子は引越して通いの賄方となり、その空いた部屋には翻訳家の三浦美代子さんが、四才位の男の子を連れて入って来た。この男の子・洋ちゃんは、お母さんのことを「ミオ」と呼んでいた。小さい時「ミヨ」と言えなくて「ミオ」と呼んでいたのが、そのまま続いているのだろう。

 以上のほかに、藤岡邸には住んでいないが、出入りしていた人には"ニモ"の製作助手で東京ムービーの製作部長の池ちゃん(池内辰夫さん)。アニメ演出家の高畑勲さん(パクさん)、アニメーターの大塚康生さん、近藤喜文さん(近ちゃん)、友永和秀さん、富沢信雄さん、少し遅れて見えた田中敦子さん。美術は山本二三さん。通訳の山本樹理ちゃんなどもいた。宮崎駿さんも少し前に来ていたそうだが、「"風の谷のナウシカ"の仕事が始まるので」と、私と入れ違い位に帰国されている。

2.Lloydの藤岡邸でのサッちゃん(常田幸子さん)

筆者と常田幸子さんの写真
向かって左より  筆者と常田幸子さん
(1983年4月撮影)

 それらの人々の中で最も印象的だったのは、同じロイドの住人だったせいか幸ちゃんである。幸ちゃんは京都北白川のお屋敷のお嬢さんで、アメリカの大学を出たところで藤岡さんにスカウトされ、東京ムービー新社に入社し、"リトル・ニモ"の仕事でロスに来た人である。一寸大柄な美女で、<女の強さ>と<張りのある大胆さと鋭さ>をかね備えている矜持(きょうじ)の色を漲らせた女性だ。幸ちゃんは毎朝、朝食時には自前の納豆を出して来て小鉢にあけ、勢いよく掻き混ぜてご飯にかけてマイペースで食事をすませる。そしてまだ食べている藤岡さんに「社長、私は出ますよ。早くしないと、相手さまに失礼になりますよ。」と言って煽り、洗面所に行くとスピーディーに顔を洗い、歯磨きをすませ、とっとと外へ出て、車を玄関に着ける。そして「藤岡さん、早くして下さい!」と大声でハッパをかける。

「おや、サッちゃんは、お化粧はいつするんだろう・・・?化粧はしていない様子だったけど・・・」
でも、私の心配は翌朝解消した。私がサッちゃんと二人で朝早く出かけたからだ。直線コースを走っている時、彼女はハンドルを手放し、コンパクトを出してパタパタやった後、口紅を出して唇に引いている。私は「一寸こわいな」と思ったが、ご本人はとても楽しげにやっている。これを見た私は「もうこの人には叶わん」と兜を脱ぐことにした次第である。
  その後、池内辰夫さんから聞いた話によるとサッちゃんはUCLAの経営学科に入り経営学を勉強し、今もロスで活躍しているそうです。

3.ロサンゼルスでおいしかったもの

 誰でも「おいしい物」は好きだけど個人差もかなりある。ましてや私は美食家ではないので、私が「おいしい」と言ったところでさほど美味ではないかもしれない。と言った前口上はこの位にして、本題に入ることにしよう。

"ローリーズ"(LAWRY'S)のローストビーフ

 ビバリー・ヒルズの東端を南北に走るラ・シュネガ大通り(LA CIENEGA BLVD)55N にある"ローリーズ"(LAWRY'S)のローストビーフは、最高のビーフのリブをイギリスの伝統的手法でローストしたローストビーフで、まさに最高の味であった。
"ローリーズ"というお店は、お味だけでなく、食する大ホールの大きさと天井の高さとピカピカに磨かれた素通しガラスの球と素通しの笠の光り輝くシャンデリアの清潔感は、その数の多さと、その高さによって宮殿にでもいる気分を味あわせてくれる―その演出は、かなりの数の(椅子のない)待合室の暗さと好対照をなしていて見事であった。開店は、夕方5時から11時まで。車は玄関入り口に止めると、お店の車係の人達が、次々と番号札を渡し、運んで行ってくれる。
この"ローリーズ"は創業一九三八年と古く、観光案内などにも出ている最もポピュラーなおいしい店と言えよう。

"ウ・ラエ・オーク オブ ソウル"の焼肉

 Western Avenueにある韓国人街の焼肉料理のお店"ウ・ラエ・オーク オブ ソウル"の焼肉は質量ともに抜群の旨さだった。就中、骨付きカルビは肉の厚みがたっぷりで、味も素晴らしかった。またスープもおいしかったし、カクテキもおいしく、一緒に行った人達も「うまいね!」「うん、おいしいね!」を連発していた。
この韓国焼肉店も大変混んでいた。お店はかなり広いのだが、空席などは見られなかった。"LAWRY'S"と違い、普段着でも行ける店である。駐車場も野外にあり、大変広い。

屋台のピッツァ

 ここで紹介するのは、お店ではなく屋台である。それもMELROSE AVEだったかBEBERLY BLVDだったか自信がない。翻訳の三浦美代子さんに誘われて一緒に車で買いに行ったのだが、Lloydから割合に近かった記憶がある。メキシコの三十代位の男が焼いているピッツァだが、生地は肉厚で具が色々たっぷり入れてあるので、実においしかった。特にドライ・ビーフとチーズがおいしかった印象がある。

鯵の干物

 これは、Lloydで、藤岡さんに送られて来た小田原の海で採れた鯵の干物だが、お裾分で戴いた物で、東京ムービー新社の社長室の留守居役の天野さんという女性の親元が小田原で大きな割烹をやっておられる。そこからの新鮮な干物が航空便で届いたのだ。驚くほどおいしい鯵の干物であった。
「うあわ!鯵の干物なんて・・・とバカにしちゃいけないね。」と感じいった干物ではあった。



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