第3回  「江田法雄(えだ・のりお)君」
清水浩二 Koji Shimizu




江田法雄氏 (18才)
1946(昭和21年)年8月
材木座の海上で、未来のスターを夢みつつ ・・・
私の学生時代には、江田法雄という天才的な芸術家の卵がいた。まだ十八才の私と江田は妙に気が合って"耽美荘"に一緒に住みながら、夏の由比ヶ浜海岸や材木座海岸の仮設舞台や隣町の小坪の祭礼の余興や松竹大船撮影所内のホールでの労組大会のイヴェントなどに『米得た喜び何に譬えん(こめえたよろこびなににたとえん)』や『死も悩みも恐れずアーメン』といった歌入りの軽演劇を作って演じたり、チェホフの『結婚の申込み』を仙台弁に翻案した一幕劇をやったりして遊んでいた。この遊びには、江田と私の他に、後藤泰隆(のちに影絵劇団かかし座主宰)もいた。彼もまた"耽美荘"の準住人だった。いつも江田と後藤が中心人物を演じ、物によってはゲストを迎えたり、時には私が出演したりもしていた。台本と演出は私が担当した。稽古は、鎌倉アカデミアの夏休み中で静まりかえっている光明寺境内や光明寺の鐘楼脇に建っていた"耽美荘"の中でおこなっていた。

 だが江田は時々、夜になると「用があるので・・・・・」と言って出かけることがあった。それが、どこへ何をしに行っているのかは後日判るのだが・・・・・・とにかく並外れたエネルギーの持主で知的欲望の強い男だった。、江田は時には前衛俳句の句会へ行っていたり、片岡巍(かたおか・たかし)氏主宰の文化団体カマクラ派の演劇研究会などに行っていたのだった。そして夏も終った九月中旬になってから、「カマクラ派に一緒に行ってみない?」と誘われて私も行ってみると、総勢三十人弱の会で、その中には後日私の力になってくれる人もいた。後藤俊太郎さん(後藤運慶の子孫で、後藤家二十八代目当主)や望月さん(小説家)や木村一鉱さんなどもいたのである。その上、将来大俳優になられ、演出もされた宇野重吉さんのお話が聞けたことは、私に「演劇って面白いんだ!よーし、演劇人になろう!」と決意させる程の"目から鱗"の魅力的なお話であった。更にカマクラ派は私に内村直也の『秋の記録』の演出もさせてくれた。出演者やスタッフは、後藤泰隆、江田法雄、中村愛子、村木はるえ、城田康一郎、他に持田君、谷君、片岡昌君などであった。




私と江田は、この『秋の記録』の公演の刺激が忘れられず、中村愛子や公演後に知己を得た宇野小四郎も加えて劇団鎌倉青年芸術劇場を立ち上げた、職業劇団を目指して。そして第一回のレパートリーに小山内薫の『息子』と、寺島アキ子の『モルモット』を選び、仕込むことにした。その仕込み費の多くは宇野小四郎と中村愛子が作ってくれ、ポスターは後藤俊太郎さんの紹介で真船禎さん(劇作家・真船豊さんのご子息で、あとで映画監督になられた方)に作って貰った。

『息子』の方の出演者は、息子の金次郎に江田、父親の火の番に私、金次郎を追う捕吏に宇野。演出は私。舞台美術は中村利雄。舞台監督は私で、助手に庄司龍と中村利雄。衣装と鬘は賃貸ということで仕込みは順調に進んだが、『モルモット』の方は出演者が不足しているので、人探しで少し苦労させられた。だが最大問題は、上演する所というか、買ってくれるところというか、それが見えて来ない。我々の中に〈芝居作り〉はあったが、それの〈運用〉とか〈販売〉といった考えがなかったのだ。「これは大変だ。どうしよう・・・・・?」と悩み始めた時、江田のヒラメキと行動力で、この関門は突破できた。江田は「常磐炭鉱に行ってみる」と言って売りに行き、四、五日して意気揚揚と帰って来た。常磐炭鉱労働組合が買ってくれ、全炭鉱を廻してくれることになった、というのだ。
このように江田という男は閃く男であり、気っ風が良くって、気持ちも優しい魅力的な二枚目であった。だから女性にはモテモテで、就中、年上の人には絶対的なものがあったようだ。「ニヒルな感じの目がたまらない!」と言うのを聞いたことがある。
江田の手腕と芝居の評判が予想以上に良かったことが、鎌倉アカデミアにも聞こえたらしく、ある日、二期生の西村俊一(あとで「月光仮面」「隠密剣士」「水戸黄門」「大岡越前」や「木枯紋二郎」等の名プロデューサーとなった人)がとんで来て一泊し、芝居を観たり、お喋りをして帰って行った。そのすばしこさ、カンの良さ、行動力には脱帽した。

以上のことからも解るように、江田法雄は企画力、営業力がある上、ルックスも魅力的だったが演技者としては必ずしも達者ではなく、特に動きは直線的で不器用だったし、トチリも多かった。その上ファッションも一風変わっていて、まだ二十才にもなっていないのに晩秋頃からはインバネス姿で町を闊歩していた。
(この江田法雄のすぐ下の弟が劇団人間座の主宰者の故・江田和雄である。)

江田のトチリと言えば、炭鉱巡演中のある日、江田の扮する上方へ逃亡していた金次郎が、私の扮する父親の火の番を訪ねて来た。そして、息子であることを隠し親爺から色々聞き出しているうちに、どうした弾みか突然科白が終りの方へ飛んでしまった。すると、まだ出番まで時間のある筈の捕吏の宇野小四郎がとび込んで来た。そして、金次郎親子の科白を立ち聞きしていたが、また突然、江田の科白が元へ戻ったので宇野は戸惑い、一寸悩んだ末、自分の頭を十手で軽く叩きながら退場して行った。

その上、この回は運が悪いらしく、トチリはそれだけではすまなかった。終幕近くの見世場に来た時、別の事件が起こった。

金次郎が父親の火の番に 「じいさん、あばよ。」
火の番 「あばよ。達者でいねえ。」
金次郎 「なにか、その・・・お前んとこの婆さんは達者か。」
火の番 「婆さんは、死んじまった。」
金次郎 「死んだ。息子の帰るのを待たねえでか。」
火の番 「何を言ってるんだ。早く行け。達者でいろよ。」
金次郎(声を飲むようにして) 「ちゃん!」
(金次郎は逃げ去る。呼笛、遠くで鳴る。火の番、嘲笑う。)―幕―

この幕切れ近くで、金次郎が「ちゃん。」と言ってから逃げた時、客席がドーッと湧いた。と、間髪入れず紙の雪がドドーッと大量に私のところに降って来た、と思った直後、頭にゴツンと紙雪入れに使っていた箱が当たった。観客は更に大爆笑。-----このトチリは、江田ではなくスノコにのって雪を降らせていた庄司龍ちゃんの居眠りが原因だったのだが、その後、小山内薫の『息子』というと、私はこの終幕近くでのハプニングと江田のトチリと宇野のあわてぶりを思い出し、笑ってしまうのである。

この鎌倉青年芸術劇場の巡演は大好評だったので、少しおいて、再巡演に出ている。但し、『息子』は大道具が立派すぎて移動に適していないのでやめて、『モルモット』と寸劇『戯れに恋はすまじ』と、タップダンスと楽団の生演奏などで出発し、西村俊一くんが売ってくれた日立市から平市(現・いわき市)までの常磐線沿線都市を巡演のあと、先のコースの見通しがなくなり、劇団鎌倉青年芸術劇場は解散してしまった。

その後、江田は東京へ移り、結婚してラジオのライターを始めたようだったが、四年後位に自死した。炎のように生き、散って行った江田。まさに青春の蹉跌の典型を見た思いがする。


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