第4回  「宇野重吉さん―宇野重(うのじゅう)さん」
清水浩二 Koji Shimizu


男は信夫、女は志保。片や俳優の卵、片や「ムーランルージュ」の踊り子。男は女にひと目惚れ。二人は恋におちた。だが親や親族は「結婚なんて早すぎる」と反対。二人は遂に駆落。今では懐かしくもあり羨ましくもあるKAKEOCHI。
 でも、この話の真偽の程は100%確実とは言えない。話の出処がお二人の友人であり同居人であり仕事仲間だった戦前新協劇団の舞台監督の陣之内鎮(じんのうちおさむ)さんなので確率は高いと思われるが・・・ご夫婦に直接聞きにくい話題だった為確認したことがなかった・・・
 ところで、この信夫さんこそ、本名・寺尾信夫、アクトネーム・宇野重吉という名優・名演出家であり、志保さんは、その愛妻であり、寺尾聰(あきら)さんの母上である。

鎌倉市 長谷大谷戸の家
(現在は熊沢家)
 私はたまたま宇野重さんの借りておられた鎌倉市長谷大谷戸の家(現在は熊沢さん家)の裏に間借りしていたので、近所の誼でお付合い頂いていた。この頃は住む家も仲々見付からない時(昭和二十二年=一九四七年)だったから、宇野重さん一家四人(聰ちゃんは、まだ生まれていないので、夫妻と女の子二人の計四人)も、第一次新協劇団演出家の村山知義先生と舞監の陣之内鎮さんの借りておられた家の小さな玄関脇の六帖間に入られていた。だから、その後、聰ちゃんが生まれると、六帖間に五人という有様だったのである。
 この頃の宇野重さんのこしらえは、古びた兵隊服の上下に軍靴。雨降りの日の傘は、油紙の3分の2がなくなっている番傘であった。それでも宇野重さんの顔は希望に満ち、実に活き活きとしておられた。多分、昭和二十二年九月五日からの帝劇公演のゴーリキー作『どん底』の稽古に通っておられた頃だっただろう。宇野重さんは、カッコいい泥棒のペペルをやっておられた。私は九月四日の舞台稽古(GP)を、鎌倉アカデミア演劇科生として見学させて頂き、大変感激したことを憶えている。何も解らない私ではあったが、この村山知義演出の『どん底』は、当時の日本の状況とどこかで重なり合っている感じがして、心に響いて来た名舞台だったような気がしている。
 丁度、その頃、鎌倉の文化団体「カマクラ派」の演劇研究会は、ヴェデキントの『春のめざめ』を木村一鉱演出でやろうとしていて、私も江田と共に会に参加していたのだが、ある日、木村一鉱氏が宇野重さんをお連れして、『戦前の新協劇団での「春のめざめ」のお話を聞く会』が開かれた。 この時の宇野重さんのお話が、私には"目から鱗"の話であり、私はそのお話で初めて演劇に強く惹かれるようになったのである。
 そのお話の中心は、小沢栄太郎さんの演ずる少年メルヒオルが、憧れの少女ヴェンドラや友人のマルタやテアといった女の子達と、道の淵にある柵にもたれてお喋りしながらリンゴを食べている。「栄ちゃんのメルヒオルは、気のあるヴェンドラの前を通過することに意識が行きすぎるのを気にして、わざわざヴェンドラ達から一番遠い道の端を、つまり舞台端ギリギリを、客席へ落ちそうになりながらカチカチの体で通って行ったんだよ。そん時、『栄ちゃんって凄いなァ!』って俺、脱帽しちゃったよ。」
この話を聞き、私は舞台の演技の好例を見せて貰ったように感じられ、興奮してしまった。そして"演劇を一生の仕事にしよう!"と決意したのである。宇野重さんのお話には、理屈はなかったし、理屈を感じさせるような言い方もなかった。平易で、大変よく理解できた。少年メルヒオルの気持ちが手にとるように感じられたし、限られた舞台空間の中での小沢さんの演技は、一言も発しない設定でありながら、とても雄弁であると思えた。私は俄然、演劇が好きになり、自分もやって行けるかもしれない、という希望を貰えたような気がしたのである。
 この年に、宇野重さんは、吉村公三郎監督の松竹映画『安城家の舞踏会』に出演されている。滝沢修さんや森雅之さんや津島恵子さん達と共に、映画に初出演されたのである。この写真のクランクインする前のカメラ・テストで「宇野さんは頬骨が一寸出すぎてるので、含綿を入れて頂くことになるかもしれませんけど・・・」と言われたそうで、「出来る限り努力して太るようにしますので、含綿だけは・・・」と拒否し、栄養を摂る努力をされたようですが、映画を見た私の印象では、宇野重さんの役柄は、社会主義思想を持った新聞記者なので、頬がこけている方がピッタリのように思われ、変に頬がふくらんでいなくて、「良かった!」と思ったことを思い出す。そして、この映画をキッカケとして宇野重さんは島崎藤村原作、木下恵介監督の『破戒』にも準主役の銀之助で出演され、大好評を博し、映画での確固とした足場を築かれたように思われる。
 ただ、宇野重さんが、そうなられる寸前、鎌倉長谷大谷戸の借家を村山家も陣之内家も宇野重家も出なければならなくなって、宇野重さん達だけが移転先が決まらず困っておられた。その時、私は志保夫人から相談されたというか、依頼されたというか、知人の学芸大前(東横線)の家に頼みに行ったが、「新劇の人で、お子さんが三人おられるんじゃねえ」と渋られ、粘りに粘ったのだが、断られてしまった。その結果、宇野重さん達は並の家には移転できず、あとから陣之内さんから聞いた話では、横浜市戸塚区の某家の大きい鶏小屋を改造した所へ引越されたそうで、私には胸が痛くなるような衝撃であった。
 油揚と羊栖菜(ひじき)の煮付の大好きだった宇野重さん。気さくで明るい志保さん。久保栄の『火山灰地』を愛し、その登場人物から長女には"しの"という、ご自分の持役だった泉次郎の相手役の名を付け、次女には泉二郎の"いずみ"を付け、長男には主人公・雨宮聰の" 聰"を付けている。その惚れ込み方と真面目さには、晩年、木下順二の民話劇を持って地方廻りに生きた、あの感動的な行動にも通じる感がないでもない。
 そう言えばちょっと前のテレビにお父さんそっくりになって来た寺尾聰さんが写っており、それを見て北林谷栄さんが涙ぐんでおられたのを拝見し、私までジーンとしてしまったことを付記しておこう。

 これは、蛇足かもしれないが、私の友人に宇野亜喜良というイラストレーターがいるが、彼に聞いた話では、寺尾聰さんとまちがえて電話が入ることがあるそうだ。寺尾聰の父親が宇野重吉であることを知り、その息子は宇野聰に違いない、と一人合点しての電話らしい。宇野重吉はアクトネームで、本名は寺尾信夫だから、寺尾聰は本名です。間違わないで下さい。

(右の画は筆者による宇野重吉氏のスケッチ)
付記

宇野重さんが鎌倉においでの頃、裏に住んでいた私の所に戦前の新協劇団で演出助手や舞台監督をやっておられたMさんが、突然現われて「渡辺さん、お米を少々貸してくれませんか?」と仰言った。
「え、お米をですか?」
驚いたが米五合をお貸しした。

当時若宮大路の八幡宮の段葛の左側には三河屋さんという大きな酒店があり、Mさんはその玄関横の小さい部屋を借りて住んでおられた。私が住む長谷大谷戸までは片道30分もかかるし、私の近くには師匠格の演出家や同僚の舞監や俳優の宇野重吉さんもいらっしゃるのに、その近くの貧乏学生の私をわざわざ選んで訪ねてみえるのが不思議でならなかった。それも一度や二度ではない。

Mさんは、最初の日から十日位して再びみえた。
そして「お米をまた…」と仰言る。
黙ってお貸しすると、また十日位して「お米を…」、また十日位して「お米を…」

私は「Mさんの年令で、その世界では知られている人なのに、演劇の世界って、そういう人でもお米も買えないのかあ…!」と思うと落ち込んでしまった。

そんな私のところへ、Mさんがまた現われ、今度は「渡辺さん、お金を五百円ほど貸してくれませんか?」
私はあまりのことに、一瞬言葉を失ってしまったが、お金をお貸しした。
だがもうこれ以上何もお貸しできない。また頼まれたらどうしよう…。私は次第に深刻になって来た。
そこで、思いきって宇野重夫人の志保さんにMさんのことをお話した。
するとそれから間もなくして、Mさんは劇団民芸に迎えられ、何年か後には演出もされるようになられた。正直言って私はほっとし、宇野重さん一家の思いやりのあるその処置によって元気を貰い、消えかかった演劇への夢を再び抱いて行けるようになったのである。

演出家としての宇野重吉さんの厳しさは今や語り草になっているが、苦労人・宇野重吉の心くばりと優しさも知って欲しい、と思い、付記した次第である。


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