![]() |
||||||
第9回 「映画スター・轟夕起子さん」 | ||||||
清水浩二 Koji Shimizu |
||||||
一九六〇年(昭和三十五年)の九月からNHKテレビ番組「お母さんといっしょ」がスタートして、私達の人形劇団ひとみ座は、月曜と火曜放送の『ブーフーウー』(作・飯沢匡/音楽・小森昭宏/人形・土方重己と川本喜八郎)と金曜日放送の『仲よしおばさん』(作・小池タミ子、田中ナナ、牧野朝子、清水浩二/音楽・桜井順/人形・片岡昌)の二本に出演を依頼された。その金曜の『仲よしおばさん』のタイトルロールが、往年の映画スター・轟夕起子さんである。 | ||||||
![]() |
←左は、NHK「仲よしおばさん」リハーサル中に筆者が撮影した轟夕起子さんの貴重な写真。轟さんが声の出演をされた「マクベス」のプログラムにもこの写真を使用している。一緒に写っている人形は、ヨッちゃんという名前で、片岡昌氏デザイン・製作。 |
|||||
私は劇団の代表としてNHK婦人青少年部の副部長さんや係長さんやP.D.の方々などと打ち合わせをする一方、劇団の演出家としてスタジオ内でディレクターを補佐し、人形演技の指導などもしていた。そんな関係で、私は轟さんとお話する機会も多く轟さんの台本への不満なども聞かされていた。
下に、その当時の轟さんのお気持ちがお解り頂けるような一文があるので人形劇団ひとみ座の『マクベス』公演用プログラムから転載したのでご一読頂きたい。 最後に、若い人の中には「轟夕起子」をご存知ない人もあるかもしれないので、轟さんのプロフィールを紹介しておこう。 轟夕起子さんは、一九一七年(大正六年)生れで、一九三二年(昭和七年)十五才で宝塚少女歌劇団に入団。一九三七年(昭和十二年)二十才で日活に入社。「宮本武蔵」のお通役でデビュー。続いて出演した「美しき鷹」で、その健康的な美貌で注目を集める。同年には、内田吐夢監督の「限りなき前進」。翌一九三八年(昭和十三年)には稲垣浩監督の「闇の影法師」。そして一九三九年(昭和十四年)には、マキノ正博監督の「清水港代参夢道中」。更に二年後の一九四一年(昭和十六年)には島耕二監督の「次郎物語」。その翌年の一九四二年(昭和十七年)には、東宝に移籍し、黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」(一九四三年・昭和十八年)のマドンナ役の小夜を演じ、「その慎み深くも健気な美しさが、より一層作品に花を添えている。」と絶賛されている。そしてそれと同じ年にマキノ正博監督による主演作品「ハナ子さん」が作られ、その主題歌「お使いは自転車に乗って」を歌い、ヒットさせておられる。戦時中で、かつ戦況が思わしくなくなって来ている中での、明るく弾む歌と轟さんのキャラクターの明るさによって、当時の人々には忘れ難い救いだったと言われている。 以上の他にも「續姿三四郎」、一九五一年(戦後)には溝口健二監督の「武蔵野夫人」、その翌年には山本薩夫監督の「箱根風雲録」、更に一九五八年には田坂具隆監督の「陽のあたる坂道」などにも出演されているだけでなく「山鳩の声」や「毒薬と令嬢」などでは、その演技力が評価されている。 私がスクリーンの外で轟さんを知ったのは『仲よしおばさん』なので、轟さん四十三〜四十五才の働き盛りだったのに、それから五年後の一九六七年(昭和四十二年)には他界された。享年五十才。余りにも早い幕切れである。 因に沖縄アクターズスクールの校長をされているマキノ正幸氏は轟さんのご子息であることを付記しておこう。
|
||||||
思い出のキャラ図鑑 NINGYO NO IE ARCHIVES |