前にも述べたように、関西の宝塚のすぐそばで育ったぼくは、子ども時代、宝塚の遊園地や少女歌劇に、両親によく連れていってもらった。とくに遊園地内の昆虫館の多彩な昆虫コレクションと歌劇の華麗な舞台のイメージは、今でも私の心のヒダに少年時代の原風景として焼きついている。
私が小学生の時に日中戦争は泥沼化し、軍国主義の風潮が強まった。私たち小学生も、作文の時間に「戦地の兵隊さんへの慰問文」を書かされたり、一九三九年(昭和十四年)からは毎月一日の興亜奉公日に米飯の真中に赤い梅干を一つ入れた日の丸弁当を持参させたれたりした。(もっとも戦争が激化して食糧が欠乏してくると、日の丸の白地の白飯そのものが憧れの対象となったが)
それでも私たちは、西宮球場に職業野球の「阪急−阪神定期戦」や夏の甲子園球場に「全国中等学校野球大会」を仲間と観に行ったり、宝塚のレビューを家族で楽しんだりして、日々を元気に暮らしていた。
私が奨学四年生になった一九四〇年(昭和十五年)は、紀元二千六百年の年であった。しかし私にとってこの紀元二千六百年は、その皇国史観の「神の国」キャンペーンとはおよそ無縁に、お正月に家族で観た宝塚歌劇のイメージとして、記憶に刻まれている。それは月組公演の奉祝レビュー『すめらみくに』。トップスターの小夜福子が演じる日本神話の皇子は、神話絵巻からそのまま抜け出したような雄々しいヒーロー像として、ぼくをファンタジーの世界に誘った。また「遠すめろぎの」という難解な言葉を連ねた奉祝歌も、月組の出演者全員のコーラスに合わせて観客も唱和する華麗なフィナーレの思い出として、鮮烈に記憶している。 |
写真は筆者(高山先生)の子ども時代(1934年、4歳の頃)
右手に機関銃、腰にサーベルの軍国坊也。神戸上筒井の玄関前で。この後、宝塚に近くの甲東園に移住、中学3、4年まで住む。
「甲東園に住んでいた頃は近所の寺田弘くんと仲良しだった。弘くんのお母さんは、大正時代から昭和初期の頃に活躍した三好野秋子(みよしの あきこ)さんだった。三好野さんは宝塚での国内最初のレビュー"モン・パリ(吾が巴里よ)"にも出演していた。また、甲山の近くには、初音礼子(はつねれいこ・宝塚時代は初音麗子)さんが住んでいた。初音さんは、宝塚のコミックスターで、退団後は新芸術座座長としてユーモアある役柄や、テレビに出て大活躍していた。(高山先生談)」
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