思い出のキャラ図鑑

           第15回     「『俊英三詩人の書下しによる人形劇』に関った人達
秋山邦晴さん、岩田宏(小笠原豊樹)さん、金森馨さん、谷川俊太郎さん、、寺山修司さん、 長浜忠夫さん、藤岡豊さん、真鍋博さん、山本直純さん、湯浅譲二さん、吉井澄雄さん
清水浩二 Koji Shimizu


  一九六二年二月十三日〜十七日の五日間、青山の草月ホールで『俊英三詩人の書下しによる人形劇』を六ステージ公演した。三詩人とは岩田宏、谷川俊太郎、寺山修司の三人である。
 作品は、岩田宏が『脳味噌』、谷川俊太郎は『モマン・グランギニョレスク』、寺山修司は『狂人教育』である。
 この三詩人の作品に関った人達の思い出を記してみよう。

1.
  岩田宏さん―――この人は、もうひとつの名前と顔を持っている。小笠原豊樹(本名)で、翻訳家(英語・ロシヤ語)でもある。ロシヤ語で有名なのは、マヤコフスキーの詩の翻訳であり、英語で有名なのはレイ・ブラッドベリーの『火星年代記』『刺青の男』『太陽の黄金の林檎』『とうに夜半を過ぎて』、そして『死ぬ時はひとりぼっち』。その他にロス・マクドナルドの物やアーウィン・ショーの物などの訳もある。
  実は若い頃(外語大在学中からしばらくの間)、小笠原さんは鎌倉の住人で、私共の劇団の客員をやって頂いたり、ロシヤのア・セ・フェドートフの『人形劇の技術』を未来社から出したり、私共とはかなり親しい間柄だった。だから、『脳味噌』のゲネプロの日のお昼などは、小笠原さんの大好物の〈そば〉を食べに赤坂まで行ったりもしている。

草月ホールロビーにて開催された合評会のスナップ
向かって左より
谷川俊太郎、筆者、岩田宏、寺山修司の各氏

その道すがら、私は訊ねた。
「どうも人形の動きが少ない感じですが、『脳味噌』のポイントをどう考えてるんですか?」
すると岩田宏は一気に喋ってくれた。
「人間ではバカバカしくて言えないことも、人形という物を通してなら、案外スーッと言えるでしょう。それに、人形自体には変なユーモアがあって、勝手な動きが生きる可能性もある。そんなところで詩人には適したジャンルだと言える、と思ってるんです。」
「なるほど!面白い見方ですね。たしかに、我々がそう考えてそういう風にしようとしても、詩人の透徹した眼と選び抜かれたコトバがなくては、実現不能ですから、詩人と人形劇人の共同作業が必要でしょうね。」
  上演後、この岩田さんの『脳味噌』に関心を寄せ、批評してくれた人の中には、谷川徹三先生と倉本聰さんと加藤衛さんや乾孝先生、武井昭夫さんなどがいらしたことを付記しておこう。

2.
  秋山邦晴さん―――秋山さんとは、前回の私の演出作品『マクベス』に続いて二度目のお付合いとなるが、今回の企画は秋山さん自身も詩人ということもあるし、三人の詩人が若い詩人でセンス的に身近らしく、とてもハッスルしてくれていた。「舞台にシュールな映像をかぶせてみませんか?」と私に提言してくれ、私は喜んでのった。劇団内には渋い顔をする保守的な人や、お金を使いたくない者達もいたりはしたが、私は強引に押し通してしまった。
こうして、私と秋山氏と映像構成の大辻清司さんと、草月ホールの映像と音響の技術者の奥ちゃん(奥山重之助さん)との四人で屠殺場へロケ・ハンに行った。
行くとすぐ全員長靴を履かされた。足元がヌルヌルしているし、絶えず水が流れているせいでもあろうが・・・。ツーンと血の匂いがしてくる。皮を剥がれた子馬が横たわっていたり、鉤に吊るされている豚のお腹を開いて、内臓を取り出してる人もいる。ヌルヌルのコンクリートの敲土(たたき)には、牛の首や豚の目玉なども転がっている。とても長くいる所ではない。遂に一同は、テスト撮影もせずに引揚げた。
 そして後日、秋山さん、大辻さん、奥山さんの三人はどこからか兎の動いている心臓の映像を入手して来て、その映像と街の風景やVサインを出す手などをダブらせたフィルムを完成させた。私はそれを"脳味噌入替病院"の診察室のシーンで使った。主人公の患者の男が宙に浮き上り長い台詞を浮遊しながら喋り続ける所や、その男の脳を医者が入替手術するところで舞台全体に映写させた。真っ黒な顔に白マスクをした医者の助手の男の首が、時々胴体から離れ患者の男を見に行ったりもした。秋山さんの音楽が当時の最先端を行くミュージック・コンクレートというシュールリアリズムの音楽だったこともあり、このシークエンスは面白く、大変好評であった。
  角度を変えて見ると、秋山さんの積極性と才能によって、『脳味噌』は、〈芸術の総合化〉の実験作品になったような気がしている。作者の岩田さんはご不満の様子だったが・・・。
  なお、秋山さんとは、この後もエリックサティーのミニ・オペラ『ジュヌヴィエーブ・ド・ブラバン』(企画製作・秋山邦晴、演出・清水浩二、美術・中辻悦子)や鶴屋南北作・清水浩二演出・辻村ジュサブロー人形・粟津潔舞台美術の「桜姫東文章」をご一緒している。

  一九九六年八月十七日に逝去された詩人・秋山さんの詩「さようなら」の一部を紹介しておこう。

  一九五四年 秋山邦晴 詩「さようなら」
    さようなら
    凍ったガラスの寂しい顔
    <昨日>
    その文字は消えてしまう

   さようなら
    あなたのからだの遠い何処かで
    恋が
    枯葉のように身震いする


ジャンジャンのチラシより

3.
  湯浅譲二さん―――谷川俊太郎さんの『モマン・グランギニョレスク』の作曲者の湯浅さんは、福島県郡山市駅前にあった大きい病院の御子息で、とても人柄の良い親切な人という印象が強い。ジョン・ケージの演奏会などでお会いすると、私に色々と説明をして下さる優しさが見られた。

「三人の詩人による実験人形劇」の「モマン・グランギニョレスク」打合せ風景
(草月ホール・ロビーにて) 向かって左より
真鍋博(美術)、筆者(演出)、谷川俊太郎(台本)、湯浅譲二(音楽)の各氏

 でも、心やさしい優秀なその作曲家が「エスビーカレー」と大きく書いてあるカレー色の車に乗っておられるのを見た時は、私は少なからず驚いた。ご本人は一向に気にしておられなかったが、そしてまた湯浅さんをご存知の方々も当然のような顔をしておられたが、私はアカデミア同期生だった友人の今泉隆雄君(作曲家のいずみたく)がキャデラックなどに乗って忙しくしているのを知っていただけに、湯浅さんのような有能な方がどうして・・・?と思ったりもしていたものである。私も世間知らずだったので・・・。
  因みに、この湯浅さんの存在を私に教えてくれたのは、NHK婦人青少年部の田村ディレクターだった。
その湯浅さんの『モマン・グランギニョレスク』の音楽は大変雄弁だったし、美しかったし、前衛的でもあり、台詞の全くない世界を見事に語り、表現していたと私は思っている。

 その湯浅さんも今や七十三才の大作曲家である。この二月十三日、第五十一回尾高賞(NHK交響楽団制定)に選ばれた。作品名は「内触覚的宇宙第五番―――オーケストラのための」である。今回の受賞で湯浅さんの受賞は四度目であるという。

4.
  真鍋博さん―――『モマン・グランギニョレスク』の全美術は、真鍋博さんによって創り出された。真鍋さんの美術は何よりも繊細で美しい。特に色彩感覚は目を見張るばかりである。また、一寸ニヒルな視線を感じさせるユーモア・センスも見られる。
  可愛い麗子夫人と清潔で温かみの感じられる家庭を持っておいでだった。だから、私の方の手違いからゲネプロ(舞台稽古)に真鍋さんをお呼びするのが遅くなっていて、照明の吉井澄雄さんを怒らせてしまった。
「こんな箱を作って、一体この一間四方の箱の奥にどこから照明(あかり)入れるの?上手も下手も天も地も、黒白チェックの板だらけ。そして、箱の一番奥には人の顔が出たり、手が何本も出たりしている。どうやって、あれらを見せりゃいいんだろう?この装置を考えたのは誰だ?」
「真鍋さんです。」
「その真鍋はどこにいる?ずっと姿見ないが、舞台稽古には来ないつもりか?」
「いや、そろそろお見得になると思いますが、一寸電話でいつ頃家を出られたか訊いてみますから・・・」
  私はそう言って、電話へ走り「真鍋さん、急いで草月ホールに来て下さい。」
それから間もなく真鍋さんは駆けつけてくれた。私に手元ライト付きの珍しいボールペンを土産に持って。
「どうもすみません、ご迷惑かけて。お詫びのしるしです。どうぞ。」
  私は小声で言った。「私より、吉井さんにこれを。」
「いや、吉井さんには謝っておきますから・・・」
それから私と真鍋さんと吉井さんの三者で打合せをし、箱の上部の黒いところに穴を開けて、そこから奥の方への光を入れることにしたのである。

5.
  谷川俊太郎さん―――三人の詩人の作品中、最も難しいと思われたのが、谷川さんの『モマン・グランギニョレスク』だったのだが、それは創る側(送り手)も観る側(受け手)も普通の芝居の物差で作者の思想や作品の主題やメッセージを探しても見つからない為らしい。そういう意味では谷川作品が一番新しくて実験的だった、と言えるのかもしれない。
  その作者谷川さんは、物静かで知的で清涼感のある小柄な人であることは、もう多くの人の知るところであろう。だからお人柄を云々するよりも、谷川さんの『モマン・グランギニョレスク』について語った言葉を紹介することにしよう。
  「ぼくの人形劇は何かテーマを表現するというよりも、ただ見た目の美しさだけを狙ったつもりです。僕は、人形劇がスペクタクルになるのは好ましくない、と思ってます。だから今度の作品でも、僕以外の人の二つは三間の間口の舞台ですが、僕のは一間にして貰いました。人間の腕や顔や、ライフ誌の切り抜きや、空ビンの世界、その奇妙で美しいものだけを見て貰う。―――キレイなものを見せるということも、詩人の仕事なんですから」
  とてもチャーミングな考え方ではないか。大変オシャレだと思う。ところが、その谷川俊太郎さんのお父上の徹三先生は「俊太郎のはよく解らない。私は、岩田さんのが一番良かった、と思いました。」と仰言ってお帰りになった。それを谷川さんに伝えると、「親爺は古いから・・・」と、一蹴していたのが印象的であった。『モマン・グランギショレスク』を評価して下さった人の中には、瀧口修造先生、武満徹さん、大岡信さん、泉眞也さん、朝倉摂さん、吉永淳一などがおいでだった。
  泉眞也さんなどは、谷川作品に触発された新しいアイディアなども出してくれた。
泉さんはとても才能豊かな知的な人で、強く印象に残ったことを付記しておこう。

6.
  寺山修司さん―――青森県三沢市出身の天才詩人にして歌人、劇作家にしてシナリオライター、エッセイスト、評論家にして映画監督、舞台演出家、そして競馬評論家でもあった。


寺山修司氏
―――この瑞々しい才能溢れる人に私が初めて出会ったのは、渋谷の「さくら」という喫茶店でだった。一九六一年の秋で、寺山修司二十五才の時である。
私はその時、寺山さんから歌集「血と麦」をプレゼントされると共に私も彼に、山村祐著「ヨーロッパの人形劇」という本をプレゼントした。そして「寺山さん、人形劇の台本書いて頂けませんか?どんな物でもいいですから・・・」と依頼した。そして出来てきたのが『狂人教育』である。彼の説では、「現代ではフィクションはもう限界。事実は小説より奇なり」です。演劇だって、いくら役者が頑張っても、実生活のニセもの以上を出られない。だから、いっそもうひとつ抽象化してしまって人間を語った方がいいわけです。」と言う。


  この「さくら」での初顔合せのとき、製作の藤岡豊が同席していたが、彼は「寺山さん、『三立パン』のCMキャッチコピーお願い出来ませんか?」と突然図々しく言った。
「たとえば、『ウンコも違う三立パン』という感じのもの?」
「まア、そうですが、食べ物にウンコは一寸・・・」
「じゃ、『三立パン、骸骨だって食べている』―――これなら、どう?面白くて良いでしょう?」
「そうですね、それで話してみますか。」
  だが、これもその後、ボツにされてしまっている。
それにしても寺山さんという人、前触れもなく質問されてもアイディアを拒否されても怒ることもなく応えてくれる、その人柄に私は好感を持った。
  その後、『狂人教育』の原稿が出来て来たのを見たら、もうひとつ驚いた。とても見やすい字で、大きくシッカリと書いてある。私はまた好感を持ってしまった。
  だが、年が明けて一九六二年二月、草月ホールのゲネラルプローベ(ゲネプロ)の日、谷川作品の稽古の準備に入った頃、寺山さんは九条映子さんを連れてやって来た。そして「どうして?僕が来たのに、僕の芝居見せてくれないの?」
「いま、谷川作品のセッティング中で、予定の変更は出来ません。どうしてって、舞台稽古は限りある時間の中で良い結果を出す為の段取りを検討して出たベストのスケジュールです。だから作者の人が見えたからといって予定を変更したりすれば、リズムが狂い出して悪い結果に繋がること間違いなしなんです。そういう訳ですので、申し訳ありませんが、十八時三十分位に出直して頂けませんか?」

「ひどいよ、皆が疲れた頃に僕のを稽古する。大体、清水浩二が演出しないのも、寺山作品を軽く見てるに違いない。」

「いや、そんな差別はしてません。長浜( 長浜忠夫 氏のこと)は若いけど才能ある演出家ですし、僕が補佐でついてもいますから・・・」
で、何とか治めたが、このやり取りの中で私は「寺山さんて、すごく良い人だけど、すごく小児的な人だ。」と思ってしまった。そこがまた、魅力的でもあるのだが・・・。
谷川俊太郎さんは、「寺山修司は人間に対してサディスティックな愛情を抱いているらしい。」と書いておられる。けだし名言と言えよう。
  この『狂人教育』を面白がって下さった人は大勢おられたが、塩瀬宏さん、吉永淳一さん、倉本聰さん、福島正実さん、高田一郎さん、松本俊夫さん、高山英男さんなどがおられた。

7.
 山本直純さん―――私が直純さんに初めてお会いしたのは、直純さんが芸大を卒業されて三年目の一九六一年十二月頃で、所は赤坂のTBSホール。オーケストラの指揮をされている時であった。その時、直純さんは余り大きくない体全体を動かして、時には飛び上がってタクトを振っておられた。その姿を拝見した時、私は何故か感動してしまった。


山本直純氏 

 その後、直純さんのこのダイナミックな指揮ぶりと、CMの「♪大きいことはいいことだ・・・」しか知らなければ、直純さんて男らしい豪傑と思われ気味なのだが、実は直純さんて大変デリケートな神経の持主なのである。音楽の方だから当然なのだけれど・・・。
私が直純さんにお願いした数々の作曲は、初対面時にお願いした『狂人教育』に始まり、一九六四年のTBSテレビの三十分物シリーズ映画『こがね丸』(シナリオは寺山修司、山野浩一、他、監督は清水浩二、粕三平、岡本忠成)、そして一九七九年三月公開の『くるみ割り人形』(企画・製作辻信太郎、清水浩二のサンリオフィルム作品)、更に一九九〇年には『アルプスの少女ハイジ』(作、演出清水浩二、製作劇団飛行船)などである。なお『ハイジ』のB.G.Mは御子息の純ノ介さんが繊細な美しい曲を作ってくれていて印象深かったことも付記しておこう。


8.
  金森馨さんと吉井澄雄さん―――舞台美術の金森馨さんと、舞台照明の吉井澄雄さんは、劇団四季創立時代からの装置家と照明家である。このお二人と私が一緒に仕事をさせて貰ったのは、寺山さんのお陰だ。「『狂人教育』の舞台美術には金森、照明には吉井がいいと思うけど・・・。」と言い出したのは寺山さんだからである。


↑上の写真は「シンデレラ」舞台稽古の際のスナップ
向って右より
吉井澄雄
氏、筆者

←左の写真は金森馨氏
 私は、金森さんの装置を初めて見た時、そのセンスの良さと美しさに胸を打たれた。虚飾を排したその良質さに惚れ込んだ。だからその後、私は自分の作・演出の『ピーターパン』や『ヘンゼルとグレーテル』や『大泥棒ホッツェンプロッツ』の舞台美術もお願いしていたが、『ホッツェンプロッツ』をやった年の十一月に永眠されてしまった。この類まれな秀れた才能の美術家を有賀二郎と間違えて書いた者がいる。事もあろうに『ひとみ座50年の歩み』の中に"「狂人教育」有賀二郎装置"と書いているのだ。有賀二郎さんも私は存じ上げているし、秀れたアーティストでもあるし、ダークダックスの『あひるの国』の中では二回、私の演出作品をやって頂いてもいるし、今日でも年賀状のやりとりもしていることを付記しておく。それと、照明の吉井さんのことで、『ひとみ座50年の歩み』は、澄雄を澄夫と間違えている。資料はある筈だし、調べればすぐ判るのに、いい加減な者の仕事の感が深い。
ところで吉井照明に私が驚いたのは、『俊英三詩人の書下しによる人形劇』の三作品(『脳味噌』『モマン・グランギニョレスク』『狂人教育』)の照明を見た時である。
光の色に濁りが見えない―――つまり、透明感がある。これは、私の知る限り、吉井照明にしか感じられないもののような気がする。その上、吉井さんの台本読みは深い。脱帽ものである。
だから私は、草月ホールの『三詩人の人形劇』以降、何本もご一緒願って来た。『ピーターパン』『ヘンゼルとグレーテル』『瓜子姫とアマンジャク』『大泥棒ホッツェンプロッツ』『シンデレラ』そして『夏の夜の夢』『ファウスト』などである。

  この世界的な照明デザイナー吉井澄雄の金森馨への友情に私は感動したことがある。
『大泥棒ホッツェンプロッツ』の舞台稽古の時、金森さんが一寸の間、席を立ちロビーに出られた。その時、吉井さんは舞台上でアシスタントに色々指示していて金森さんが席を離れたことを知らなかった。
「ね、清水さん、金森どこへ行ったか、知りません?」「さっき、ロビーの方へ出ていかれましたよ。」「ロビーへ?」
「ええ。」
吉井さんは血相を変えてロビーへ走った。
この時、私は金森さんの体が回復していないことを確信した。
話が半年ほど遡行するが、この年の正月、参宮橋の金森事務所に打合せに行った折、病上りの金森さんを見てショックを受けた。
「どうなさったんです、金森さん?」
「胃潰瘍で入院してましたが、今日退院して来ました。色々ご迷惑かけてすみませんが、今日は助手の三宅景子と打合せしといてくれませんか。」
「いいですよ。」
―――こんな会話があったことを思い出すと共に、金森さんは胃潰瘍なんて言っていたが、本当は胃癌なのかもしない。それを吉井さんは知っている。でも、このことは誰にも言うまい。ひょっとすると、金森さん本人が知らないこともあり得るから・・・・。それにしても、あの吉井さんの顔から血の気が引いて行った様と、暗いホールをロビーへひた走る後姿を・・・・あの〈仕事の鬼〉吉井澄雄が仕事を忘れて狼狽した一瞬を、私は金森さんの名前を見聞きする度に思い出してしまうのである。


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