第二十四回  「片岡昌さん」
清水浩二 Koji Shimizu



片岡昌氏と氏の作品 「ちまた」の一部(2004年9月27日横浜のリーブギャラリーにて)
 私が片岡昌を知ったのは、一九四七年の秋と記憶している。当時、私は十九才になったばかりだから、片岡昌は多分十三才か十四才位だったと思う。所は鶴岡八幡宮近くの雪ノ下公会堂という集会場であった。片岡昌の兄の片岡巍(かたおか・たかし)主宰の「カマクラ派」と称する任意の文化団体に学友の江田法雄に誘われて参加した時だった。
  この「カマクラ派」には「文学研究会」「演劇研究会」「美術研究会」があり、「文学」の責任者は片岡巍、「演劇」の責任者は木村一鉱(きむら・いっこう)、「美術」は後藤俊太郎の三氏であった。この三氏の中で今も健在なのは後藤俊太郎さん位だろう。この後藤さんという人は、一一〇〇年代後期から一二〇〇年代前期にかけて活躍された木彫の名人後藤運慶の子孫であり、初対面の頃は美術学校の学生でご実家近くの狭い部屋を借りて一人暮しをしていた。
後藤さんは私が興味を持った一人で、部屋を尋ね、ベッドに腰かけ、足をブラブラさせながら美術のお話をしたことがある。今ではもう八幡宮三の鳥居右の鎌倉彫店"博古堂"のご主人であり、物の本によると、長年に渡り鎌倉彫協同組合理事長や伝統鎌倉彫事業協同組合の初代理事長を務められ、藍綬褒章、そして一九九三年には勲五等双光旭日章の叙勲を受けた人である。そういう偉い人なのだが、私が一番強調したいのは、後藤俊太郎さんの作品がダイナミックで思い切り良く、燃える創造の息吹が見る者を虜にして離さない真の芸術作品ということである。
  後藤鎌倉彫の話題が長くなったが・・・私が知る限り、片岡昌は「ひとみ座」の劇人形の九〇パーセントを作って来た人形作りである。人形を作り始めたのは、一九五〇年の春からなので、もはや五十四年劇人形を作って来た大ヴェテランなのだが、決して偉そうにはしない人柄で、若い頃からこれ程印象の変わらない男も珍しい。

 ここに紹介する写真は、片岡昌十四か十五才の「ひとみ座」に入る三年位前のもので、前列向かって左から持田君(早稲田大の学生で「ともだち座」の座員)、池田君(光明寺山門近くの家の男性)、セーター姿の片岡昌君、後列向かって左の女性は倉並ピーちゃん(ピーちゃんは愛称でタバコのピ−スから取った)、右は河村コロちゃん(コロちゃんはタバコのコロナから取った)。所は材木座の光明寺の庭。撮影は私。ピー、コロの二人は光明寺近くに住んでいた女の子で、どうして知り合ったかは憶えていないが、私達(江田や私や後藤泰隆など)の女友達であった。(いや、ひょっとすると、江田以外は"お邪魔虫"だったのかもしれないが・・・?)

内村直也の「秋の記録」稽古の時に撮影 1947年頃
向かって右から2番目のセーターを着た少年が片岡昌氏
  片岡昌のエピソードはいろいろある。

  先ずは一九五一年(昭和二十五年)の初秋の話だが、ひとみ座が私の作・演出の「イワンが貰った金貨を生む小山羊の話」を持って宮城県巡演に行き、古川市の北の外(はずれ)の千葉兵衛という木賃宿に宿った折のことだが、人手不足で上演班に参加していた片岡が体調を崩した。見かねた中村愛子が負(おんぶ)して医者へ連れて行った。その間「痛いよ、痛いよ。」と泣いていたことは忘れられない。片岡昌は、こういう素直さと子供っぽさも持ち合わせている男でもあるのだ。



向かって左より
宇野小四郎氏、片岡昌氏
1950年代後半

 次の話は一九五四年(昭和二十八年)頃の初夏のこと。横浜国大付属小学校へ突当る道の左側に空地とボロ小屋があって、そのボロ小屋に「ひとみ座」の宇野小四郎と片岡昌の二人が遊び半分で泊まりに行った。ところが、運悪くその翌朝早々に大きな地震があった。そこから六、七分位のところにいた私が心配して駆付けてみると、パンツにランニングシャツの二人が家から離れた草の上に寝ていた。
 「凄く揺れてるんで這い這いして此処までやっと逃げたけど、寝不足とショックで疲れちまって、立上る元気もなくなっちゃって・・・」と言って片岡は寝ようとするから 「あの家の中で寝た方がいいんじゃないの?」と言うと、 宇野が「そんな恐ろしいこと!」と怯える有様だった。
無論、宇野のことだから、これは芝居をしてタノシんでいるのである。

 その頃からである。山田珠樹家の離れの二階八畳の私の所に、夕方になると片岡が現われ一緒に夕飯を食べるようになった。

  この片岡昌と宇野小四郎はいかにも鎌倉人らしい鎌倉人のように私には思える。宇野は神経質で気難し気だが、突飛な面白い事をやり出したりするユニークさは抜群で、「鎌倉人だなあ」と思わせてくれて楽しい。そして片岡には神経質な感じは殆どなく、のほほんとしている面で「鎌倉人だなあ」と思わせるし、結構楽しそうに笑うので周りを楽しませてもくれる。彼の仕事の時のピリッとた緊張感漂う空気とはかけ離れているとも言えよう。

 ところで、片岡昌の仕事と言えば、周知の如く劇人形作家である。私は随分彼と一緒に仕事をし、信頼できる作家の一人でもある。私の演出で片岡昌が人形と美術を担当した作品は、「ひとみ座」でのテレビも含めての二十三本と、劇団人形の家での種村季弘作『ファウスト』(パルコ劇場20ステージ)の二十四本である。その中の主な作品は、下記の如くである。

  1. 『カスパーの冒険』( ウィリー・ブレーム 作・劇団ひとみ座)
  2. 『イワンが貰った金貨を生む小山羊の話』( 清水浩二 作・劇団ひとみ座)
  3. 『美女と野獣』 (宇野小四郎 作・劇団ひとみ座)
  4. 『絵姿女房』 (中江隆介 作・劇団ひとみ座)
  5. 『お馬に化けた狐どん』(須田輪太郎 作・劇団ひとみ座)
  6. 『寒さの森の物語』 (清水浩二・宇野小四郎・須田輪太郎 合作・劇団ひとみ座)
  7. 『悪魔のおくりもの』 (清水浩二・宇野小四郎・須田輪太郎 合作・劇団ひとみ座)
  8. 『マクベス』 (シェイクスピア 作・劇団ひとみ座)
  9. 『三詩人による人形劇』(劇団ひとみ座)のうち 『脳味噌』(岩田宏 作)、『狂人教育』(寺山修司 作)
  10. 連続テレビ映画『伊賀の影丸』 (TBS・52週放映)
  11. 『ファウスト』 (種村季弘 作・劇団人形の家)
 
   

  片岡は劇人形をデザインする前に上演台本を読み、各登場人物の性格や身体的特徴や年令、職業(あるいは学歴)、家族、そして特技などを探り、かつ作者の感覚を捉え、作品のスタイルをキャッチする。それから演出者と話し合う。演出者がその作品をどう捉え、どんな風に表現しようとしているのかを訊ねておかなければならないからだ。そしてそれら総てをクリアしたところで、デザインに取り掛かる。この作業を一寸厄介に思われる人もおろうが、これが共同芸術であり総合芸術である演劇の仕事の宿命でもあるのだ。
  こんな片岡に対し、一般的な創作人形作家の場合は、その作家の内的なものが形象化されるので情念的になりがちに思える。誤解のないように言っておくが、私は情念的なものを否定しているのではない。エロティシズムと共に「現代」を語るのに欠かせないもののひとつとさえ思っているのだから・・・。渋沢龍彦は「現代信じられるものはエロティシズムだけだ。ハンス・ベルメールの人形はエロティシズムそのもので、まさに現代的である。」と言っていた。片岡昌は風貌的には渋沢に似ているが性格的には正反対だ。片岡の作品は明るく男性的であり、六〇年代、七〇年代の申し子のような作風であるようにも思われる。彼の作品を私は初期の頃から劇人形に限らずずっと観てきたが、片岡のアクチュアリティーの面での感性がややパターン化されているように感じられることがある。作品の出来不出来は技術面だけではないから、こんな時私は、頭脳よりも感性で時代を捉えてくれたらなァ・・・と思うこともあった。

  でもその片岡昌が人形劇の人形ではない「シチュエーション・アート 埋もれし時」という企画を一九九八年から埼玉県越生町龍ヶ谷の築後一三〇年の民家ギャラリー山猫軒で、二〇〇四年末までに四回催した。私は二回目の一九九九年の十月十日に観に行っている。JR八高線の越生駅で降り、バスに乗って6km位先にある上大満停留所で降りると、そこからなだらかな坂道を2.5km位上がって行くと、右側に建つ古めいた民家「山猫軒」が姿を見せ始めた。その少し前から片岡が姿を見せ、急ぎ坂を下りて来た。「いらっしゃい。こんな遠くまで来て貰って-----」
 そして内へ入ると、山猫軒のご主人の南達雄さんを紹介してくれた。
南さんという人はプロのカメラマンなのだが、「色々なところを撮っているうちに、この一三〇年たった民家に出会い、趣味のジャズをこんな所で思い切り聴けたら・・・と思い民家を買い取り、"民家ギャラリー山猫軒"としたわけで・・・」と説明してくれた。そしてその後、私の「片岡とはどういうことで・・・?」との質問には「片岡さんとは、ジャズ・スポットで一緒になって友達になったんです。妙に趣味があいまして・・・」と語ってくれた。そう言えば、私が山猫軒にいる間も殆どモダンジャズがスピーカーから流れていた。私も嫌いではないし、就中、ジョン・コルトレーンのファンだったので、「もう少し近ければ、しばしば来てみたいところだ」と思った位であった。
この「山猫軒」の「埋もれし時」には、片岡昌の昭和ひと桁生まれの側面が見られて楽しかった。
 
 そして今年(2004年)は、九月二十七日より十月三日まで横浜市中区吉田町のリーブギャラリーで行われた片岡の展覧会の作品「ちまた」を見に行った。巷の中のコミュニケーションがテーマの作品だが、彼の話ではコミュニケだけではなく、様々な現代風景を批判的に表現して行く。」とのことだった。今後の「ちまた」が楽しみになってきた。

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