第9回  「映画スター・轟夕起子さん」
清水浩二 Koji Shimizu


一九六〇年(昭和三十五年)の九月からNHKテレビ番組「お母さんといっしょ」がスタートして、私達の人形劇団ひとみ座は、月曜と火曜放送の『ブーフーウー』(作・飯沢匡/音楽・小森昭宏/人形・土方重己と川本喜八郎)と金曜日放送の『仲よしおばさん』(作・小池タミ子、田中ナナ、牧野朝子、清水浩二/音楽・桜井順/人形・片岡昌)の二本に出演を依頼された。その金曜の『仲よしおばさん』のタイトルロールが、往年の映画スター・轟夕起子さんである。

←左は、NHK「仲よしおばさん」リハーサル中に筆者が撮影した轟夕起子さんの貴重な写真。轟さんが声の出演をされた「マクベス」のプログラムにもこの写真を使用している。一緒に写っている人形は、ヨッちゃんという名前で、片岡昌氏デザイン・製作。

 私は劇団の代表としてNHK婦人青少年部の副部長さんや係長さんやP.D.の方々などと打ち合わせをする一方、劇団の演出家としてスタジオ内でディレクターを補佐し、人形演技の指導などもしていた。そんな関係で、私は轟さんとお話する機会も多く轟さんの台本への不満なども聞かされていた。
「これは何とかしないと・・・」と思いつつ二作はそのまま進んだが、三作目のところで轟さんが台本を一読され、かなりハッキリと拒否反応を示されたので、私は副部長の萩原良太郎さんや係長の小谷さん、ディレクターの宮川さん達に轟さんの声をお伝えしに行ったところ、・・・「清水さんにもライターをお願いしてみてはどうでしょう・・・?」と萩原さんがいい出したので、「一寸待って下さい。私、ライターに加わりたくて伺ったんじゃありません。台本書きは余り得意じゃないし、好きでもないので・・・勘弁して下さいよ。」と、狼狽しながらお断りしたのだが、「それじゃ、取り敢えず一本だけでも・・・いいでしょう。」「お願いします。」と頭を下げられて、お断り出来なくなってしまい、引き受けてしまった。

「なかよしおばさん」スタジオでのドライリハーサル
向って左端 カメラマン、中央の女性 が
宮川ディレクター、 右端はアシスタントディレクター
 以上のやり取りからお解りだろうが、私は放送開始後に「一本だけ」ということで書いたのが、思わぬ結果をもたらした。私のテスト作品を読まれた轟さんが「これよ!これよ!」と欣喜雀躍なさり、私は嬉しさと同時に憂鬱にもなってしまったのである。少し前に日本テレビでやっていた人形劇『冒険ダン吉』のシナリオ書きのパターンと同様になってしまったからである。ただ『仲よしおばさん』の方は映画ではないし、中心に大女優轟さんがおられる安堵感があるので、気分的には少々楽であったし、轟さんが私をとても大事にして下さったので、幸せでもあった。例えば、つつじヶ丘のご自宅まで車で招かれて、島耕二監督に紹介して頂いた上、ご馳走になったり、劇団で企画していた『マクベス』の声の出演のお稽古に川崎の稽古場まで通って頂いたり、ひとみ座のために大変なご協力を下さったのだが、最大のご協力は宇都宮労演主催の『マクベス』公演に、当日が大阪でお仕事があるにもかかわらず、終演後の座談会に駆けつけて下さったことだろう。(当時はまだ新幹線が開通してなかったのだから、そのご苦労は大変なものだったと思われる。)それだけに、当夜九時少し過ぎに轟さんのお姿を発見した主催者側も劇団側も大感激の拍手と歓声が上がったことは言うまでもない。
下に、その当時の轟さんのお気持ちがお解り頂けるような一文があるので人形劇団ひとみ座の『マクベス』公演用プログラムから転載したのでご一読頂きたい。

最後に、若い人の中には「轟夕起子」をご存知ない人もあるかもしれないので、轟さんのプロフィールを紹介しておこう。
轟夕起子さんは、一九一七年(大正六年)生れで、一九三二年(昭和七年)十五才で宝塚少女歌劇団に入団。一九三七年(昭和十二年)二十才で日活に入社。「宮本武蔵」のお通役でデビュー。続いて出演した「美しき鷹」で、その健康的な美貌で注目を集める。同年には、内田吐夢監督の「限りなき前進」。翌一九三八年(昭和十三年)には稲垣浩監督の「闇の影法師」。そして一九三九年(昭和十四年)には、マキノ正博監督の「清水港代参夢道中」。更に二年後の一九四一年(昭和十六年)には島耕二監督の「次郎物語」。その翌年の一九四二年(昭和十七年)には、東宝に移籍し、黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」(一九四三年・昭和十八年)のマドンナ役の小夜を演じ、「その慎み深くも健気な美しさが、より一層作品に花を添えている。」と絶賛されている。そしてそれと同じ年にマキノ正博監督による主演作品「ハナ子さん」が作られ、その主題歌「お使いは自転車に乗って」を歌い、ヒットさせておられる。戦時中で、かつ戦況が思わしくなくなって来ている中での、明るく弾む歌と轟さんのキャラクターの明るさによって、当時の人々には忘れ難い救いだったと言われている。
 以上の他にも「續姿三四郎」、一九五一年(戦後)には溝口健二監督の「武蔵野夫人」、その翌年には山本薩夫監督の「箱根風雲録」、更に一九五八年には田坂具隆監督の「陽のあたる坂道」などにも出演されているだけでなく「山鳩の声」や「毒薬と令嬢」などでは、その演技力が評価されている。
 私がスクリーンの外で轟さんを知ったのは『仲よしおばさん』なので、轟さん四十三〜四十五才の働き盛りだったのに、それから五年後の一九六七年(昭和四十二年)には他界された。享年五十才。余りにも早い幕切れである。
 因に沖縄アクターズスクールの校長をされているマキノ正幸氏は轟さんのご子息であることを付記しておこう。


参考資料
ひとみ座公演「マクベス」より プログラム中の轟夕起子さんのコメント。 ↓



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