子ども調査研究所所長・高山英男氏
(2004年3月高山先生の事務所にて撮影)
資料「私の宝塚三景 by高山英男」
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高山英男には「ボクが・・・」とか「ボクなら・・・」といった自己顕示欲は、余り感じられない。編集者だったせいかもしれないが、いつも一歩引いた感じで物を言う。それでも彼の言いたいことは伝わって来る。
また、高山英男は好奇心が強く、巾広く様々な物を読み、色々な物を見に行く。その好奇心の旺盛さは、寺山修司と似ている。趣味は違っている面もあるが・・・。でも、二人とも大の宝塚歌劇ファンで共通している。それで思い出したが、高山の姪御さんが宝塚に入った時、芸名の名付親になったのは、寺山修司であった。 |
その寺山が、私と車で移動中、「清水さんと高山さんって、紳士的すぎると思う。」と言った。でも、高山は兎も角、私は寺山が言う程の紳士ではない。そう振舞ってる時はあるけど・・・。
高山は私と違い、心やさしい人であり、気くばりの人でもある。その上、他人の為によく動く人でもある。しかも、そういう気質はお父上の言葉によれば---「英男は小さい時から、他人の為に何かをするのが大好きな子供でした。」まさに<栴檀は双葉より芳し>である。
ところで、私が高山英男に初めて会ったのは、一九五一年秋である。所は、横浜国大経済学部の講堂。大学祭でドイツの人形劇『カスパーの冒険』を上演した時のことらしい。<らしい>というのは、終演後に「安くてすみません。」と上演料を渡してくれた学生さんが・・・、「あれ、僕だったんだよ。」と先日、高山英男に言われて判ったからだ。そしてその時、彼は「『カスパーの冒険』には反権威的なパワーを感じた。」とも言っていた。
そして、次に彼に会ったのは、それから十一年後の一九六二年の春らしいのだが、これも私の記憶には朧にしかなく、「清水さんは覚えてないでしょうけど、ぼく川崎市上丸子の『ひとみ座』稽古場へ行ったのね。『現代子どもセンター』を作るので、参加してもらおうと思って・・・。でも、清水さんは演出中だったの。で、一寸の間、稽古見せて貰ってたけど、稽古の時の清水さんて、凄く厳しくって、僕おそれをなしちゃった。」「いや、すみませんでした。『マクベス』再演の為の稽古中で、新しく役に付いたのが、私のイメージのように動かなくて、かなりカリカリしてたんだと思う。その上私も未熟者だったからね・・・役者さんの扱い方が下手だったようで・・・」
以上の二回の出会いに比し、三回目は『現代子どもセンター』主催の「子どもサロン」という研究会で、司会・進行の高山英男を長い間見ていたので、初めてキッチリ記憶出来た気がする。
この「子どもサロン」は、新宿の厚生年金会館会議室で行われ、私は人形遣いで、かつ声優の三井淳子を連れて参加した。因に、三井淳子の声の出演は、アメリカ・アニメ『フィリックスの冒険』のフィリックスで、放送はNHKであった。「子どもサロン」出席の年月は、一九六二年六月〜十月の出来事である。
それ以降、高山英男と会ったのは、私が「ひとみ座」をやめ、私と同時期にやめた藤岡豊が設立した「東京ムービー」を手伝っていた頃のことである。突然、電話が来て、渋谷の喫茶店で会った。
高山さんは開口一番、「アニメをやる人は、まだ他にもいるだろうけど、新しくって面白い人形劇を作れる人は、清水さんを除くといないような気がするの。それでさ、もし、僕で良かったら、お手伝いしますので、人形劇やって貰えませんか。」と言われた。
この高山英男の真情あふれる言葉に私は感動した。そして、その視野の広さと状況分析の鋭さに打たれた。
私は、「そう簡単には作れないかもしれないが、そっちの方向へ進むことにしよう!」と決意したのである。それから、高山に助けられながら、一九六七年の春には、『劇団人形の家』設立となるのだが、そこまでの二年間は、私には大変素敵な二年間であり、それまでの私にはなかった世界を知り、看取出来た二年間でもあった。
では、ここで、高山英男の作った『現代子どもセンター』を紹介しておこう。
その頃の高山英男の言うところによると「近頃では、テレビ時代になって、色々な分野の人達が一緒になって、ひとつのドラマを創ったりしているのに、子ども文化の方は相変らず児童文学者協会とか児童演劇協議会とか人形劇団協議会や日本漫画家協会とか・・・同一ジャンルの職能団体しかない。何か変である。もっとジャンルの壁を越えた交流サークルといったものができるといいな・・・そんな考えから、編集者や製作者やディレクター達と話し合ってるうちに出て来たのが、「現代子どもセンター」なの。」ということらしい。そして、その「子どもセンター」に参加したのは、秋谷重男(野村重雄)、赤塚不二夫、阿部進、いずみ・たく、石ノ森章太郎、伊藤忠彦、石井賢康と賢俊、上田とし子、小出英治、佐野美津男、柴野拓美、清水浩二、鈴木均、鈴木悦夫、園山俊二、高山英男、つのだ・じろう、手塚治虫、寺山修司、畠山滋、早川元二、藤子不二雄、松本俊夫、山元護久、山中恒、吉村徳蔵、水沢周、村田忠三、横川喜範、松村康平、前田尚美、わたなべ・まさこ、石川弘義、乾孝、筒井敬介、須藤出穂、山田正弘、池田龍雄、野田真吉などがいた。仲々面白い顔ぶれではある。
さて、ここで劇団人形の家誕生までの二年間に高山英男プデュースでやった舞台の三例を記しておこう。
[その1]
高山さんは池袋の西武デパートへ行って、出来たばかりのファウンテン・ホールでの春休み公演を決めて来てくれた。そこで私は高山さんと相談して「人形を作ってる時間もお金もないから、デパートの玩具売り場から様々な玩具を提供して貰い、それに棒を付けたり、糸を付けたりして「『オモチャ人形劇』をやろう。」ということに決めた。そして、それの上演台本は児童文学者の佐野美津男氏に頼むことにした。佐野さんと私は玩具売り場に行き、舞台で使えそうな玩具をセレクトし、佐野さんはそれをノートに記しながら、台本のプロットやイメージを考え、私にそのアウトラインを話してくれた。「どうでしょう。こんな感じでイケますかね。」「大丈夫、イケそうですよ。」ということで大筋が決まると、「司会とかセリフとかはどうするんです?」と問うので、私は「阿部進に司会も科白もお願いするつもりです。但し、音楽と効果音と演出は私がやるつもりでいます。問題は舞台照明ですが、ホール付きの田中恒雄さん(その後の劇団人形の家の『人魚姫』や『小さい魔女』の照明プランナーになった人)にお願いするつもりです。」と話すと、几帳面な佐野は、納得して帰って行った。人形遣いは、私が四ヶ月前まで監督をしていた人形劇映画『こがね丸』の」出演者有志にお願いした。(注・・・『こがね丸』の監督は、私の他に、岡本忠成、粕三平、シナリオは寺山修司ほか。音楽は山本直純であった。)
「人形劇映画こがね丸」撮影風景
人形デザイン製作・田畑精一
演出・清水浩二 |
劇団人形の家第1回公演「人魚姫」プログラム
人形デザイン・宇野亜喜良
人形製作・辻村ジュサブロー
演出・清水浩二
製作・高山英男
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劇団人形の家第2回公演「小さい魔女」プログラム
人形デザイン製作・辻村ジュサブロー
演出・清水浩二
製作・高山英男 |
いよいよ開幕の日が来た。この『オモチャ人形劇』の最大の呼物は「鉄腕アトム対鉄人28号の大決戦」である。
「アトムが勝つか!28号が勝つか!雌雄を決する戦いに子ども達は熱い眼差しを送っている。司会の阿部進は、自分が大人であることを忘れたように、客席の子ども達とやり合ったり、煽ったりする。と、テレビでは絶対に見られない二体の戦いに子ども達は興奮し、立ち上がって叫び、声の限り自分の好きな「鉄腕」や「鉄人」を応援し続ける。
数の上では「アトム・ファン」が多いが、勢では「28号ファン」の方が勝っている。戦いは決着がつかず司会者が戦を中止させ、お互いに相手を誉め称え、握手して左右に飛び去って行く。会場内に流れる『鉄腕アトム』の主題歌、続いて『鉄人28号』の主題歌。それに和して歌いながら、子ども達は会場を出て行く、興奮の面持ちで・・・・。
言うまでもない事だが、『オモチャ人形劇』の演目は、この「鉄腕アトム対鉄人28号の大決戦」だけではなく、その前に動物達や乗り物たちの玩具によるカワイくって、タノシイ「人形ミュージカルショー」も上演されていたことを付記しておこう。 |
1965年 西武デパートのファウンテン・ホールで開催された「おもちゃ大行進」
ステージに立つ阿部進氏
演出・清水浩二 企画製作・高山英男 |
[その2] 『オモチャ人形劇』が終わって間もない頃、"現代子どもセンター"に行ったら、多摩テックの営業係長の成田重行さん(その後、オムロンの重役になられた人)が見えていて、高山さんに「4月末からのゴールデン・ウィークのファミリー向け企画を相談にこられた成田さんですが・・・こちらは人形劇演出家の清水浩二さんで、丁度良いので清水さんにも相談に乗って貰いましょう。・・・ね、清水さん何か面白い企画ないですか・・・」と訊かれ、私はその頃気に入っていた『ウルトラQ』という怪獣テレビ映画が浮かんで来たので、「『ウルトラQ怪獣大会』というのは、どうですか?カネゴンという怪獣なんか、子ども達の間では、大人気のようですよ。」「面白そうですね。」「正式には円谷さんのO.Kを取り付けた時点からということで・・・」
その翌日、私は円谷プロのアポを取り、その日の午後には砧の円谷プロを訪れて「『ウルトラQ』の怪獣ショーをやりたいのですが、カネゴンを含めて数体怪獣をお借り出来ませんでしょうか。ショーをやる所は、日野市種久保にある"多摩テック"という本田技研さんのやってられるゴーカート遊園地内の野外ステージです。上演時期は、今月末からのゴールデン・ウイーク中の日・祭日です。」とお願いすると、「いやあ、結構なお話で、有難いです。番組の宣伝にもなりそうですから・・・」と心よくお貸し頂くと共に、小さい怪獣のために、円谷氏から登戸の小さな仏具屋さんの裏にいる小柄な人を紹介された。会いに行くとその人は、すっかりスター気取りで「迎えの車は、当日何時です?」とか「ギャラは・・・(紙にペンで書き)これで、支払いはキャッシュで、最終回の開幕前に頼みます。」と言われ、「わかりました。ペンディングのものは、後日、またご連絡します。よろしくお願いします。」
あとは、他の怪獣達を若い役者の卵に頼めばよいだろう。そこで、江田和雄くん主宰の劇団人間座の役者さん達に入って貰うことにした。「よーし、これでなんとか見通しはついて来たな。」---私は自分に言いきかせた。
このようにして、日本初の遊園地での『怪獣ショー』が始まる日がやって来た。園内のスピーカーでの呼び込みのアナウンスに続いて、舞台下のビッグ・バンドがオープニング曲を演奏。終ると、司会の阿部進がとび出して来て、第一部が始まった。ここで子ども対象の遊びをやり、その間に芸大の学生だった青木伸くんデザイン・製作の遠見のビル群をバックに飾り込んだ。そして準備O.Kとなるや、『ウルトラQ』のテーマ曲が演奏され、『怪獣ショー』の始まりとなったのである。
例によって例の如く、司会の阿部進は私の台本にアドリブを加えながら怪獣達を一匹づつ紹介してゆく。怪獣によってはビルを倒したり、阿部進をぶっ叩いたり、仲間と喧嘩しながら出て来て仲裁に入った阿部を突き倒したりで、観客の笑いと拍手を浴びる。すると、他の怪獣達も受けようと「我こそは」「我こそは」と急ぎ出て来て、大乱闘となり、総てが倒れ、客席の子ども達が声を揃えて怪獣の名を呼ぶと、阿部の助けと共に立上る。順に起き上がって一同が並んだところで、楽団が『ウルトラQの主題曲』を演奏し、怪獣達が一斉に踊り出てエンディング曲になったところでショーは終ったのだった。
この「『ウルトラQ』怪獣ショーの初日には、本田技研の社長の息子さんが見に来ていたらしく、翌二日目には、父の社長が見に来られ、成田係長に「息子が興奮して帰って来てね、かなり気に入ってる様子だったので、気になって見に来たのだが、息子が夢中になるのが解かったよ。」とご機嫌で帰られたそうだ。その他、このショーには、東急エージェンシーの企画製作部長をやっていた詩人の長谷川龍生さんや児童文学者の佐野美津男さん、富士銀行系列の広告代理店フヨーエージェンシーの企画製作部の近藤部長、言うまでもなくプロデューサーの高山英男や司会の阿部進の奥さんと子ども達なども見に来ていた。
どうやら、この「『ウルトラQ』怪獣ショーは大好評らしく、成田さんには「是非、来年も・・・!」と言われ、翌年は「『マグマ大使』大会」をやったことを付記しておこう。 |
日本初の遊園地(タマテック)での怪獣ショーの写真1
中央がカネゴン
構成演出・清水浩二 企画製作・高山英男
日本初の遊園地(タマテック)での怪獣ショーの写真2
中央でマイクを持っているのは司会の阿部進氏 |
[その3]
上記の「『ウルトラQ』怪獣ショー」をやった年の秋頃だと思ったが、「現代子どもセンター」の高山英男のところに遊びに行った折、詩人であり、左翼イデオローグでもあり、かつ英語教育事業グループの「ラボ教育センター」の専務でもあった谷川雁氏が来ていて、高山さんに紹介して貰った。そして、それが縁の始まりで、それから間もなく、私は「ラボ教育センター」に呼ばれ、谷川さんから広報資料室長の定村忠士さん(前、日本読書新聞編集長)に紹介され、「清水さん、この定村君の話を聞いて下さい。私は時間がないので、失礼します。」
定村氏の話は、「来年早々、ラボ教育センターのパブリシティを都内の何ヶ所かで大々的にやりたいので、協力して頂けませんか。そのパブリシティにふさわしい人形劇をつくり、上演して貰いたいのです。―――いや、無論、ギャラはお払いします。人形製作費や演出料も込みでお払いします。」「で、その台本は・・・?」「私が、コンセプトと求めているイメージをお話しますので、出来ましたら清水さんの方で書いて頂きたいのですが・・・」「それは良いのですが、仕込費と上演料を合わせて、人形劇にどの位のお金を掛けるのでしょうか?それによってスケールが決まりますし・・・」「わかりましたが、清水さんの方から、五、六人で出来る四十分〜五十分の上演時間の物を作って頂くことで見積書を出して頂いたらどうでしょう。」「いいですよ。その中には、司会のお相手や、登場人物の女の子の台詞などを舞台袖辺で喋って貰う上原ゆかり(マーブルチョコレートのコマーシャルで人気者の女の子)や司会の人の出演料も含めてもいいのでしょうか?」「司会の人は、私共の方で用意しますので、除外して下さい。」「はい。」
話が終ると、私は人形デザイン・製作の青木シン君に電話をして、「台本の方向性が出たら仕事に入れるように出来ますか?二、三日中には出ると思うけど・・・」「はい、大丈夫です。」
それから、その翌日、上原ゆかりのマネージャーの秋田次男に会って、OKを取り付け、続いて人形演技者に出演交渉をした。出演候補者は、TBSのシリーズ人形映画『こがね丸』の監督をしていて知り合った人形操演者から選んだ。
高山英男は現在、日大芸術学部・放送学科の講師も務めているが、宝塚歌劇のファンであり知識も相当なものである。先日NHKの「ふれあいラジオパーティ」に汀夏子、ペギー葉山と出演し、宝塚歌劇の思い出などを話していた。(二〇〇四年四月六日火曜日P.M.8:05〜9:30)
面白かったので、ほんの一部だけだが紹介しておこう。
金井直己アナウンサー 高山さんの思い出の曲っていうのは何かあります?
高山 宝塚歌劇に糸井しだれさんという・・・春日野八千代さんの相手の可愛い娘役の人がいて、その人が「雲間の吊橋」っていう不思議な題名の歌を歌って・・・
金井 いつ頃なんでしょうか?
高山 昭和15年。
金井 ああ、そうですか。
高山 それでね、「雲間の吊橋」っていうと日本舞踊ショーの歌かなあと思うんですが、実はこれは昭和14年に「オズの魔法使い」で当時14才だったジュディ・ガーランドが歌ったハロルド・アーレンの名曲「虹のかなた」・・・「オーバー・ザ・レインボー」の日本における本邦初演の歌なんですね。
金井 じゃあ、それをさっそく聞いて頂きましょう。「雲間の吊橋」歌は糸井しだれさんと雪組生徒のみなさんです。
(歌が流れる)
(途中略)
高山 この糸井しだれさんには僕、悲しい思い出がありまして・・・ボクが仲良かった、横浜に住んでいた早稲田大学の学生だった従弟が学徒出陣でフィリピン戦線に駆り出されるわけですが・・・戦争へ行く直前に「宝塚をこの世の見納めに観たい」って言って、宝塚を観て・・・それで糸井しだれさんのブロマイドを買ってきて「この人、可愛いでしょ!」なんてボクに見せて・・・それを忍ばせて、フィリピン戦線に行きました。そして、そのまま戦死しちゃったんですよ。
汀 ・・・・・・
ペギー 悲しいわよね。
高山 糸井しだれさん自身も空襲で亡くなったんです。
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昭和二十年七月二十四日に三重県津市の空襲で亡くなられた糸井しだれさん
(寶塚歌劇雪組公演 歌劇「北京」プログラムより)
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以上の高山英男の話を聞いて、私も悲しくなった。戦中派の私にも一寸違うが、似たような話があるからだが、それはまたの機会にしよう。
(なお、高山氏の宝塚体験については、彼の雑誌掲載原稿
「私の宝塚三景」で少年時代からの宝塚体験に触れているので、気になる方はこちらをお読み下さい。 http://ningyonoie.com/zukan/library/article001.html 手塚治虫氏との交流も書かれています。)
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