第6回  「乾孝(いぬいたかし)先生と『つくし座』の人達」
清水浩二 Koji Shimizu



私が初めて鎌倉山住吉の乾(いぬい)家を訪れたのは、一九五〇年一月初旬だったような気がする。バス停「見晴」前の鎌倉山ロッジで人形劇を上演の後、乾先生宅に招かれた。そこには、先生と範子夫人の他に、先生のお父上の乾政彦法学博士がおいでになり、私も宇野小四郎も中村愛子も村田早禾も木村一鉱も大緊張だった事と、"ぼた餅"を博士や先生方と一緒に戴いたこと位しか覚えていない有様である。なにしろ、乾政彦博士は東京弁護士会長を四回もなさっていた上、一九四六年の勅撰により、貴族院議員になられた偉い方。その博士がひと言も発せられないのみか、時折咳払いをなさる。私達貧乏な若者達はすっかり堅くなり、固まってしまった。


1957年 鎌倉山住吉の乾孝先生宅で
右より 乾孝先生、秋田次男(営業)、清水浩二、宇野小四郎
 言うまでもなく乾先生は、法政大学の心理学の教授で保育問題研究会や心理学研究所の仕事もやっておられる長身で細身で身のこなしも上品で、話し方も穏やかな学者らしい学者さんであった。マドロスパイプをご自分で作られたり、絵を描かれたり、写真に凝ってらっしゃったり、「つくし座」を作られて公演もされたりと、とても多趣味で器用な方だった。中でも私が驚いたのは、学生時代に一年以上かけて製作された人形アニメーション・フィルムがあることだった。昭和五年頃に作られた物なので、私に言わせれば国宝級の物だと言えよう。作品は「人魚姫」でタイトルは「人魚と人間」で、9.5m/mの音なしフィルムだが、構成、演出、人形デザイン、製作、アニメート、撮影、編集まで一人でやられたそうで、その集中力と持続力と科学的頭脳には驚嘆するばかりである。
 この9ミリ半のオリジナルフィルムは現在捜索中であるそうだ。今年になって、私はそのコピー(ビデオ)をお持ちの文部科学省メディア教育開発センター(現・独立行政法人メディア教育開発センター)の 近藤智嗣 先生のお陰で再び拝見する機会を得た。このビデオは乾先生ご自身が撮影されたもので、そのコピーを近藤先生に託されたようだ。

 それと、乾先生は私如き者が遠慮なくものを申しても、じーッと耳を傾けて聞いておられ、「渡辺さん(私、清水浩二の本名は渡辺信一なので)のいておられ言う通りだね。ぼくも教えられました。」などと心の底から仰言る方であった。馬がお好きで、よく馬の絵も描たことを懐かしく思い出す。「会いたいなア」と思う人の筆頭格の一人である。

 ところで、先生の奥様の範子夫人は日露戦争(明治三十七年〜三十八年)で名を轟かせた満州軍総参謀長・児玉源太郎大将のお孫さんなのだが、偉ぶったところのないサバサバしてる奥さんで、仲々面白い方でもあった。これは、後日のエピソードだが、前進座の河原崎長十郎が中国の芝居『屈原』で横須賀市民会館公演を行った折、観て来られた範子夫人は、「ね、渡辺さん、わたくしクッパラ見て来たわよ。」「えっ!?クッパラって・・・?」「ほら、長十郎さん達のやってる中国のお芝居。」「ああ、郭 沫若(カクマツジャク)のクツゲンのことですね。」「あら、クッパラじゃなくって、あれクツゲンて読むの?」「はい。・・・で、ご覧になって、奥さんの印象はどうでした?」「面白くなかった。だから殆ど寝てました。」―――なんと屈託のない奥さまだろう。おおらかで温か味のある方である。

 それからしばらくして、一九五一年の七月末から八月中旬位までの間、私は鎌倉山の乾先生の所へ居候させて貰ったことがある。(この時、乾政彦博士はもう亡くなられていた。)
 この居候生活で、私は人形劇サークル「つくし座」の面々を紹介され、「つくし座」の人形劇へのアドバイスも依頼された。そんなある日、和服姿の端正な若い紳士が二人現われ、「山の下の方の寺島の家の者でございますが、お稽古を拝見させて頂きたいのでございますが、よろしゅうございますでしょうか」と丁寧に仰言ったので、「ああ、寺島の家の方とおっしゃると、この池田とおる君がお世話になっている六代目(菊五郎)さんご一門の方ですか?」「はい、さようでございます。」「えらいこっちゃ!六代目一門の歌舞伎役者さんが素人のやる『大根抜き』の人形劇を見に来るなんて・・・どうしよう!」―――私はパニクッたが、「つくし座」の面々は涼しい顔でいつも通りにやっている。短い人形劇なので、十五分とかからずに終わってしまうと、「いやあ、ケッコウなお作でございました。楽しいお時間のうちに色々お勉強させて頂き、ありがとうございました。」と深々とお辞儀をし、若い役者さん二人は去って行った。「ああ、疲れた!」と、私は参っていたが、池田とおる(愛称トロ)は涼しい顔でいるし、その他の面々も平常と変わっていない。この辺りがいかにも「つくし座」らしいところなのかもしれない。




写真はつくし座のメンバーと筆者
向かって右より、網野、清水浩二、有坂芳雄、磯邦夫、小松華寿実、高橋、一番左の人の名前は不明


  ここで、「つくし座」の私の記憶に残っている人達を紹介しておこう。
 池田とおる(トロ)は、六代目菊五郎の血をひいている男の子で、この時は十九才位。芝居をやらせると、やたら面白く、私は彼を好んで「ひとみ座」にも出演して貰っている。『瓜盗人』の主人や『目出度暫』の鎌倉権五郎景政(仮面劇)などは傑作であった。特に『目出度暫』は、一九五三年の"血のメーデー"の翌年の〈メーデー前夜祭〉を日比谷公会堂で行う時の、私共の作品だが、台本は宇野小四郎が書き、私が製作と演出をやったような気がするが、お金がないことと、正面から歌舞伎など出来るわけないので、パロって行こうとして景政の衣装〈大きな茶色の素袍(すおう)〉は紙で作り、角前髪(すみまえがみ)と隈(くま)の顔は仮面とし、〈つらね〉を中心にした一人芝居で演じさせてみた。すると、江戸歌舞伎の荒事の豪放さと〈つらね〉の名調子の「暫」が喜劇に変る。紙の衣装に表情のない仮面。その上、変な間のある〈ズッコケつらね〉で観客は笑う、笑う・・・すると景政役のトロは調子づいて、ますます頼りない景政にして行く。そして、イヴェントが大受けのまま終ると、舞台袖においでだった大先輩の薄田研二さんも「面白いね、これ!大成功だよ。良かった、良かった!」と笑いながら誉めて下さった。この『目出度暫』の稽古の時、トロが質問して来た事があった―――「須田さんて、本名じゃないって聞いたけど、どうして須田輪太郎って付けたんですか?」「スターリンに肖(あやか)ろうと思ってスターリン太郎って付けたんだって。」「じゃ、僕も真似っこして、毛沢東十郎(けざわとうじゅうろう)ってしよっと。」だから鎌倉権五郎景政役は毛沢東十郎さんが演じていたことになっている。

 トロに続いて紹介したいのは、山田美年子(やまだみねこ)・愛称はネコ。エネルギッシュで小柄で目のクリクリとしたモダンアートの絵描きで、良く喋るし、良く動く。あとから「つくし座」へ来たアイヌの大男の砂沢ビッキと北海道の阿寒湖辺で知り合い色々な体験をしたことは、武田泰淳の小説「森と湖のまつり」の中に描かれているという。ところで、この二人、一九五五年の五月に人形劇団「ひとみ座」のあった鎌倉市大町の伊藤成彦邸に、山田家の敷地で取れた竹の子を売りに来たことがある。お金に困っていないような人が、お金のない人形劇人にモノを売りに来るなんて・・・と、私は吃驚したが、その後、色々な経験をしてみると、それがお金持の子供の一つのパターンのようでもある。面白がって行商のようなことをしているだけなのである。その上、そういう感覚で生きている人なので、私等が地方へ巡演に行くのを知ると、「ね、お土産買って来てね。」とサラッと言われて「いいよ。」って言ってしまう。そのネコさんは未だ元気でやっておられるようだが、もう何十年と会っていない。ビッキの方は大分前に池袋の東武デパートでの展覧会場で会って以来、テレビで二度ほど見たが、もう他界されている。ビッキは晩年、音威子府(おといねっぷ)を仕事の根城にしていたようだが・・・。

 それと山本一郎君ことイッチョのことも語らなくてはならない。「つくし座」の中にあって要所々々を諦めて行く組織感覚を持っていたのはイッチョが一番のように私には思えた。人を押し除けて行くタイプではなく、地味に支えるタイプに見えていた。そこが彼の良さであり、彼の損な所でもあるように思う。イッチョのお爺さんは、帝劇にいらした演劇界の大物プロデューサーであるらしい。私はそのお爺さまとお会いしている。一九五三年の七月に日本橋三越の三越劇場で「イワンが貰った金貨を生む小山羊の話」(作・演出 清水浩二 人形・片岡昌)を公演していたときのことである。終演後、楽屋に白浜研一郎さんが見えられお話しているところへ、イッチョについて入って来られたのが、そのお爺さんだったのだ。その時点では、そのお爺さんがそんなに偉い大先輩であることを私は知らなかったが、白浜さんはご存知だったようで、急に威儀を正され、「山本先生でいらっしゃいますか?お初にお目にかかります。」と名刺を出し、深々とお辞儀をされたので、「イッチョのお爺さんて偉い人みたいだ。」と思っていると、イッチョが「渡辺さん、僕の祖父です。・・・こちらが(と私を指し)今日のお芝居の作・演出の清水浩二さんです。(※この頃は、私は普段は本名の渡辺で呼ばれ、演出をした時は清水浩二の名前を使っていた。)」と紹介してくれた。お爺さんは「孫から話は聞いとりましたが、仲々良く出来てる芝居でしたね。面白かったですよ。」と言って戴いた。私はなぜだかとても嬉しかったことを今でも時々思い出す。イッチョ(山本一郎君)は、その後早稲田を出られた後、劇団民芸の文芸演出の方へ進まれている。一度偶然渋谷のパルコ劇場の事務所前でお会いしたことがあったが、その後は会っていない。一寸会ってみたい人である。

 それから、最近話題のテレビドラマ『ピュア・ラブ』の脚本家・宮内婦貴子さんも十八才の頃、少しの間だが「つくし座」と「ひとみ座」にいたことがあった。当時の彼女は小柄でお人形さんのような顔をした可愛い娘さんだったが、髪を七三に分け、裾を刈り上げていた上、Yシャツに紺の背広上下という出立で、当時としては大変ユニークな感じがしていた。それだけ芯の強い女の子だったのだろう。頭の回転は早く、口も達者で強烈な印象を残し、旅先から真夜中姿を消してしまった。その後八年位して、私達が『マクベス』をやった時、観に来てくれたが、その時はワンピース姿で現われ「今、シナリオ研究所でシナリオの勉強をしているの。」と言っていた。

 以上の人々の他に「つくし座」には、小松華寿実さん、有坂芳雄君などもおり、二人とも大学を出るとNETテレビに就職され、ディレクターになられたが、小松ちゃんの方は、私の作のTV人形劇『アッポしましまグー』の担当ディレクターをして貰い私は随分助けられたが、有坂ちゃんの方は長くはNETにはおられなかったようだ。よく「ひとみ座」を手伝ったりもしてくれていた器用な人だったのに、その後のことは全く判っていない。
 それと、当時女子高生だった緋多景子(ひだけいこ)さん(現・樋田慶子さん)は、俳優座養成所から新生新派に行かれて女優になった人で、去年テレビの「長崎ぶらぶら節」では、いい味を出していた。
 そういえば、乾先生のことで思い出した話がもう一つ。ある時、「余りにも上品で真面目だから・・・」と、渋沢龍彦や小笠原豊樹など鎌倉の不良青年達が乾先生を誘い、浅草辺を遊び歩いたらしいが「乾先生のスタイルは少しも変わらなかった・・・」と渋沢兄から聞いている。どっちもどっちの愛しい人達の思い出と言えよう。

お知らせ
※乾孝先生の心理学教材の映像が本年5月より、独立行政法人メディア教育開発センターの 近藤智嗣 先生のホームページで公開されました。アニメーション・フィルム「人魚と人間」の一部もご覧になることが出来ます。
心理学教材  http://www.nime.ac.jp/~tkondo/inui/
「人魚と人間」 http://www.nime.ac.jp/~tkondo/inui/dengon.htm

スタジオジブリ「熱風」2004年6月号に清水浩二先生の原稿"私が歩んだ人形劇史"中に乾孝先生との交流、つくし座が掲載されました。

 


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