思い出のキャラ図鑑

           第18回「辻村寿三郎さん(辻ちゃん)」
清水浩二 Koji Shimizu




辻村寿三郎氏
手にしているのは桜姫の首(カシラ)


  辻村さんに初めて会ったのは、昭和三十六年(一九六一年)の初秋ではなかったかと思っている。当時「人形劇団ひとみ座」に在籍していた二木並子さんの御主人の大槻達夫さんの紹介での初対面であった。場所は失念してしまったが、新丸子駅近くの喫茶店だったかもしれない。辻村さん二十七才、私は三十四歳の時であった。

 その頃、「ひとみ座」は、翌一九六二年二月の草月ホール公演の仕込み中で、優秀な人形製作者を捜していた。その有力な候補者として対面したのだと思う。無論、辻ちゃんが作った人形も見せて貰った。結果、力を借りることになった。「何をいつまでにお願いするか?」は片岡くんと辻ちゃんの話し合いで決めた筈である。私が知っていることは、岩田宏作「脳味噌」の主役の男(患者)の衣裳と皮靴を実に手際よく、綺麗に作ってくれたことを今も覚えている。
 そしてそれから五年後、一九六六年(昭和四十一年)。「人形劇団ひとみ座」を離れて二年。もう人形劇はやめていた私に友人達が力を貸してくれて、私は再び人形劇団を作ることになった。そしてその第一回の公演レパートリーに選ばれたのが、寺山修司に依頼の「人魚姫」であった。
草月ホール公演 「脳味噌」舞台写真
作・岩田宏、演出は筆者の清水浩二、
人形デザイン・片岡昌
人形の背広と靴を辻村氏が製作

「人魚姫」製作時の写真
向かって左より 辻村寿三郎氏と筆


劇団人形の家 第1回公演「人魚姫」
作 ・寺山修司
演出・清水浩二
人形と舞台美術デザイン・宇野亜喜良
人形製作・辻村寿三郎

人形デザインと舞台美術および広告デザインは宇野亜喜良さん、人形製作は辻村ジュサブローさん、音楽は林光さん、照明は田中恒雄さんといったスタッフである。言うまでもなく辻村さんは、宇野さんの難しそうな世界を見事な人形にしてくれた。 その公演は、一九六七年(昭和四十二年)の七月五日の朝日生命ホールから始まり、紀伊国屋ホール、厚生年金会館ホールと続き、一年間公演した。そして、一九六八年(昭和四十三年)にはドイツのプロイスラーの童話「小さい魔女」を、辻村さんの人形デザイン・製作及び舞台美術デザイン。音楽を和田誠さん(イラストレーター)の作曲。八木正生さんの編曲。科白及び歌は小沢正一さんと中村メイコさんで、七月二十三日から「人魚姫」公演同様の新宿・朝日生命ホールで初日を開け、翌一九六九年の三月まで公演している。(この頃辻村さんは、辻村ジュサブローと表記している。)

劇団人形の家
第2回公演「小さい魔女」
演出・清水浩二
人形デザイン製作・辻村寿三郎
 「人魚姫」「小さい魔女」の二年間の公演で劇団人形の家は千五百万円の赤字を出し、次の舞台公演を企画することが困難となった。そこで私は前々から誘いのあった連続テレビ人形劇を受けることにした。そしてキーステーションのNETテレビ(現テレビ朝日)に番組企画書を提出した。それが運良く局内の番組企画コンクールで一位に入って、ベルト番組が決定した。(この経緯は、ホームページ「アッポしましまグーのはじまり」に書いてあります。)
 このテレビ番組「アッポしましまグー」は丸々二年で終了した。そして、間もなく辻ちゃんの展覧会が四谷の「芸術生活画廊」で催された。私はオープニング・レセプションに招かれ、そこで初めて辻村さんの作った着物姿の少女の小さい人形を見た。おそらく樋口一葉の世界をイメージした抱き人形のように感じられたが、そうであったか否かは覚えていない。ただ、辻ちゃんの和物の人形を初めて見て、私は大変魅力を感じ、辻村さんに言った。----「今度一緒にやる時は、和物をやろうよ。辻ちゃんの和物って、とっても良い!」この私の言葉を辻村さんはとても喜んでくれた。


劇団人形の家
第3回公演「桜姫東文章」
演出・清水浩二
人形デザイン製作・辻村寿三郎
宣伝美術・粟津潔
 そして、私はその後の一ヶ月の間に、様々な戯曲を読み、考え、鶴屋南北の「桜姫東文章」を選んで、辻ちゃんのアトリエに話しに行った。
すると辻ちゃんは「ホント!ボク、"桜姫"って大好き。ほんとにやれそう?」
「サアちょっと、お金の面は心もとないけど・・・・・」
「ボク、お金はいい。材料費だけあれば・・・・・」
「でもね、辻ちゃん、登場人物すごく多いんだよ。だからボク、登場人物でカット出来そうなもの考えてみたんだけど・・・・一寸、これ見てくれる?」と手書きの香盤表を出した。
すると、辻ちゃんは「清水さん、こんなんじゃ出来ない。桜姫だけ考えたって、「新清水の場」と次の「桜谷草庵の場」では髪型も衣裳も違ってる筈よ。そして次の「稲瀬川の場」は、また違う。更に「三囲堤の場」も髪型、衣裳共に違わなくちゃ・・・やる以上は最低のことはやりましょうよ。」
「でもなあ、企画製作のボクとしちゃなあ・・・」
「だから、ボクは材料費だけでいいって言ってるじゃない。」
「よーし!それじゃ辻ちゃんのお説に従い、ちゃんとやるようにしましょう。」
「そうよ。そうすれば、絶対良い舞台が出来るから・・・・・」

私はこの時の辻ちゃんの心意気は未だに忘れられない。そしてその心意気が作品に見事に結実して多くの人々を喜ばせ、感動させてくれたのである。

 企画の話をしてからしばらくたって、辻ちゃんは、「一寸質問があるんだけど、清水さんは「桜姫」を歌舞伎風というか、古典的にやりたいの?それとも現代風にしたいの?どっち?」
「ボクは、浮世絵の立体化を希望してるけど・・・」
「すると、衣裳は木綿地で草木染がいいよね。」
「出来る?」
「出来ますよ。」
「じゃ、その線で行きましょう!」

 それからしばらく辻ちゃんは、人形製作で命を削るほど悩んでいたが、私は、翌年四月の予定で東急デパート本店画廊での"辻村ジュサブロー作・桜姫東文章人形展"を決めてしまった。辻ちゃんには「大変だろうけど、なんとか間に合わせてね。」と伝え、それから一ヶ月ほどは、連絡しないでいた。

 ある夜、辻ちゃんから電話があった。
「清水さん、桜姫の衣裳出来たから見に来てよ。」
「じゃ、明日の午後一番で行きます。」
そしてその翌日、綺麗に片付いている辻村さんの家で「衣裳見せ」をやった。辻ちゃんはそういう歌舞伎の仕事には明るいが、私は野暮天なので、"何をどうするのか?"も解らず出来た桜姫の衣裳を眺めただけだったような気がする。盃を交したり、衣裳についての讃美などを上手に言わなくちゃいけないのだろうが、全く初めてで何も気の利いたことが言えなかった。さぞかし辻ちゃんはガッカりしたことだろうと思う。
辻村さんの「桜姫東文章」に賭けるその心意気は、舞台稽古の時にも自分の楽屋に手製の暖簾を掛け、手製の楽屋着を作って着るという傾き方であり、ほほえましい限りだった。

 さて、辻村ジュサブロー人形展「桜姫東文章」は、一九七二年(昭和四十七年四月二十八日)から五月三日まで、渋谷の東急デパート本店の東急画廊で行われた。そしてその後、銀座のソニービル四階にあった富士ゼロックスのナレッジ・インでも「人形展示と"濡れ場"の上演」を行なった。そしてそこでは辻村さんが桜姫を操作することもあった。とにかく、かなりの評判で、毎回かなりの人達が見てくれたし、坂東玉三郎さんが見にこられたこともあった。

 このソニービルの展覧会と「濡れ場」上演は二ヵ月位続いていたように思っているが、その間にソニービル上演は殆どの週刊誌に載り、藤本義一司会の大阪発の「11PM」に辻ちゃんと私は呼ばれて行った他、TBSの「ナイトショー」やNETの「婦人の時間」や関西テレビの夜番組などにも出演した。そしてソニービルの富士ゼロックス・ナレッジ・インが終わると、今度は東宝芸能からの話があって帝国ホテルのシアターに一ヵ月近く出演した。ここの上演では、「濡れ場」だけでは難しいので、立廻りなども入れたように記憶している。

 以上のような事をやりながら、製作費を作って行く、という危い橋を渡るような製作が進行していた。

 そして、この年(一九七二年)も残り少なくなった頃、私と辻村さんはそれぞれ顔が腫れあがったり、原因不明の眼病にかかった。おまけに取材に来ていた「芸術生活」誌の記者さんまでがコンクリートの角に顔をぶつけて、本人の表現によると、「エンマさまが塩辛をなめた時の相貌になった」とか、南北やお岩さまを拝まなかった祟りだそうで・・・”あな恐ろしや”であった。



劇団人形の家 第3回公演「桜姫東文章」舞台写真 (序幕新清水の場)
演出・清水浩二 人形デザイン製作・辻村寿三郎 舞台美術・粟津潔
 でも、こんなアクシデントにもめげず、辻ちゃんの人形は出来つつあり、来春には公演が出来そうになって来たので、私は急ぎ経堂の照内さんの稽古場で、稽古に入った。その稽古を映像作家の松本俊夫氏が見学に来たり、女優の東恵美子さんが見に来たり、若い美術評論家の北川フラム君が来たり、その他色々の方々が見学においでになった。

 月刊誌「芸術生活」は、一九七三年一月号に「桜姫東文章」をグラビア十二ページ、本文三ページで取り上げてくれ、宣伝してくれた。
 それと四月十三日という公演初日直前には、夕刊フジが二ページ一杯に「桜姫」の写真を掲載してくれた。

 


そして四月十七日(火)から二十一日(土)の五日間、新宿の厚生年金小ホールで公演した。開演は六時と少々早かったが、上演時間が三時間五十五分もかかる。おそらく人形劇史上では、こんな長い上演時間の作品は、めずらしいのではないだろうか。それゆえの早い開演であった。
 しかも辻ちゃんのすさまじい努力によって、この「桜姫東文章」という大作は人形劇の傑作となったことは間違いない。 準備にまるまる二年をかけ、公演は五日間。辻ちゃんは、たった五回の公演のために、五十三体もの人形を作ったということを付記しておこう。

思い出のキャラ図鑑 劇団人形の家「人魚姫」