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 「アッポしましまグーのはじまり」
 

清水浩二先生へのロングインタビュー インタビュアー・カワキヨコ

インタビュー要旨:
 アッポしましまグー」は、民放の人形劇としては異例のロングランで1969年〜1971年までの約2年間、NET(現・TV朝日)で週5日・朝夕2回15分のペースで放送されていました。
  このインタビューでは、「アッポしましまグー」を大衆文化の一端を担うTV人形劇として評価しています。また、幼児を対象とした番組でありながら、大人をも魅了してしまうようなメタファーがちりばめられた台本の存在。さらに人形デザインをはじめとする視覚的要素や番組中で流していた音楽が、"時代"とストレートにリンクしていたという点で他の人形劇とは一線を画していた事がインタビューを通して浮かび上がってきました。



アッポしましまグ---この愛すべきTV人形劇はどのようにして始まったのか? この疑問を解く為に清水浩二先生へのインタビューを敢行し、現代から1969年へのタイムスリップを試みた・・・・

カワ TV人形劇”アッポしましまグー”の台本やテーマソングの作詞でおなじみの清水浩二先生にお話をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。まず、このシリーズが始まったきかっけは?
シマシマ狼とあーべ(阿部進 氏)
清水 始まるきっかけは、まず僕たちの劇団「人形の家」の旗揚げ公演(1967年)で「人魚姫」をやった。その舞台公演の宣伝の為に、NETのプロデューサーだった渋谷栄治さんにお願いして、朝のワイドショー「木島則夫モーニングショー」(1967年6月29日と7月27日)に出させて貰った。それがきっかけです。
カワ 「人魚姫」の演出は清水先生、台本は寺山修司さん、人形デザイン・宇野亜喜良さん、人形製作・辻村ジュサブローさんですね。初めてあの舞台写真をみた時、こんなに美しい人形は見たことがないと驚きました。今でもこれを超えるものはないような気がします。

劇団 人形の家 第1回公演
『人魚姫』
プログラムより
人形デザイン 宇野亜喜良
人形製作 辻村寿三郎

『人魚姫』辻村寿三郎氏アトリエにて

(向って左より・敬称略)
宇野亜喜良・清水浩二・寺山修司
阿部進・辻村ジュサブロー
清水 TVでも反響が大きくて、「木島則夫モーニングショー」に2度出て、その二度目(7月25日)の放送後、渋谷さんから「TV人形劇をやりませんか?」と言って貰った。だが・・・その時はお断りした。・・・・・それで、その後1年位たってオトフリート・プロイスラーの「小さい魔女」を人形劇にした。
カワ ジュサブローさんが人形と装置をデザイン・製作して、音楽がイラストレーターの和田誠さんという組み合わせですね。
清水 そう。だけど、もう一つ盛り上がらなかったんで、赤字が当時の額で1,500万円位になってしまった。台本が弱かったんだね。
カワ ・・・・・


劇団人形の家 第2回公演 1968年
「小さい魔女」プログラムより
人形デザイン・製作 辻村寿三郎

清水 それで、渋谷さんの「テレビやりませんか?」という1年前の言葉を思い出したワケ。そうしたら「竹腰美代子の体操の時間」っていうのが終わるので、その後ワクなら入れる事できるっていうことで、企画を考えた。それが、「アッポしましまグー」。でも、この枠は元々予算が少ないワケだから、小人数のものじゃないとやってけない。登場人物二人だと、場面が変化しにくいし、面白くなりそうもないというので、3人登場させることにした。赤頭巾ちゃんと狼と、二人の間を邪魔する3枚目をって・・・・それで、アヒルを加えた。だから、女の子がアッポちゃんで、狼がしましまで、アヒルがグーということで、「アッポしましまグー」が出来上がったワケよ。
カワ そうだったんですかあ・・・・・
清水 でも、TVの子供番組の狼話って、狼は単なるワルが多い。だから面白くない。もう一つヒネった方がいいんじゃないかと、ある著名な編集者のアドバイスもあったし、月並な子ども芝居ではダメだとも思っていた。かといって、1,500万の借金も背負っていたから、稿料の高い良いライターには頼めない。もうこうなったら自分で書くしかない・・・・書く事は好きじゃないけど・・・やるしかないかと・・・・・。
カワ ハハハ・・・・・悲壮な現実もあったんですね。でも、作品世界やキャラクターは、よくある人形劇みたいに貧乏くさくなくて、むしろ豊かな感じですね。
清水 ああ、それはね、誰に人形デザインを頼んだかってことも影響してる。
カワ というと・・・・・
清水 それは、・・・・・宇野亜喜良さんじゃ、ちょっと世界が違うから、宇野さんにお気の毒だと思って・・・・・
カワ エー!それじゃ上野さんならいいっていうんですか?
清水 一寸違うな、僕その時は上野さんを知らなかった。ターゲットにしたのは、和田誠さんなの。
カワ 和田誠さん!!
清水 そう、和田さんにはオシャレな漫画風な面白さがあると思ってたから、 和田誠さんとこへ行ったんだよ。で、「こういう企画あるんだけど、和田さんどうですか?」って言ったら「僕の絵って宇野さんと違って非常に平面的だから、無理だ」って言うのよね。「弱っちゃったなあ、どうしようかな」って言ったら ・・・・・
カワ ええ・・・・・・
清水 和田さんが、上野紀子さんの自費出版のカレンダーを出して来て、「この人どお?」って言ったんだ。それで絵見たら、立体的で、幻想的で、可愛いユーモアもあるし、ノーブルな感じもある。「赤頭巾やるなら、プークとかひとみ座とかがよくやってる人形劇の番組みたいなものじゃない方がいい。「人魚姫」をやった後なんだから、ちょっとはそれらしい匂いもするような方がいいだろう」っていうんで・・・・・
カワ なるほど・・・・・
清水 上野さんのデザインて一寸大人っぽくて幻想的っていう方向にピッタリ合ってたワケですよ。
カワ 現実的には低予算路線だったのに、才能の相乗効果で、予算がある番組よりも面白くなったワケですね。和田誠さんは、この企画に興味なかったんですか?
清水 たぶん。アニメだったら「やる」と言ったんじゃないかな・・・・・人形は立体でしょ・・・
カワ ああ、それわかります。「小さい魔女」の音楽を担当されて、ジュサブローさんの作った、あのタイプの人形を見ちゃったから、余計気になるんでしょうね・・・・・
清水 和田さんの言ってられること良くわかたので和田さんは諦めて、上野さんの電話番号聞いて、すぐに上野さんのトコへとんで行った。
カワ ご本人に会ったんですか?どんな様子でした?
清水 そうね・・・・・上野さんてすごい神経質なトコあって、「人形にした時に原画と違う風にならないか?」とか、「わたし絵本を目指してるので、マイナスになるような事が起こると困るんです。」っていうのが強くあったみたいね。それに僕のことも知らないし・・・・・それで僕は、合田佐和子さんのコト話したり、宇野さんのこと話したり、いろんな話をしたの。そしたら、「この人だったら信頼しても良いかな」と思って貰えたんでしょうね。「わかりました。やります。」って事になった。
人形たちをデザインした絵本作家の上野紀子さん
人形操演は劇団人形の家
カワ

下手な人形作りに頼むと、デザイン画より、ダメになる事多いですから・・・。

清水 でも、辻村さんが「人魚姫」を作った時は、成功していた。辻村さんはデザイン画を見てから「こんな風にしてもいいかしら?」って僕に言って来た。で、僕は「絵と一寸変わるけど、良い」と言った。話をアッポに戻すと、キャラは上野さんに描いてもらって、企画書は僕が書いて、PDの渋谷さんに持ってった。丁度その時、NETで企画コンクールをやってて、そこにその絵と企画書が出されて、第一位になった。
カワ その時は、もう台本は出来てましたか?
清水 いや、出来てなかった。
カワ 「アッポしましまグー」っていうタイトルは?
清水 それは、あとで出て来たの。最初は「ポッペちゃん」っていう企画書を出した。それでね、著作権登録前に調べたら、もう登録済みのがあった。ダメだったのよ。それで「アッポちゃん」って口から出まかせみたいに、付けた。ポッペちゃんと響きが似てるからね。狼の名前は、縞の服やネクタイやシャツが好きという渋谷PDをモデルにして、劇団のセンスの良い事務の女性(よっちゃん)にもリサーチして、「しましま」になった。そのあとで、「アヒルは、『グー 』でいいよな」って素早く決めた。
カワ どうして「グー」なんですか?
清水 だって、アヒルは3枚目でさあ、小っちゃくってさあ、ヒョコヒョコしてて、主役的じゃないじゃない。アッポちゃんとしましまは「喰うぞ」ってヤツと「喰われるのイヤ」っていうのと主役らしい二人。その二人の間をバカな歌歌って通過したりとか、しましまに変なこと言って怒らせてる間にアッポちゃんを逃がしたりとか、そういう感じだから・・・・・オカズの具と、グットのグーで、グーでよい、と決めちゃった。
カワ そういうことだったんですか・・・・・ところでちょっと渋谷プロデューサーのお話に戻させて頂きたいのですが・・・・渋谷さんから企画を頼まれるキッカケになったのが、寺山さんの「人魚姫」だったワケですね。・・・・・私は「アッポしましまグー」という作品を考える時に、他の人形劇と何かが違うという気がしてたのですが、それが何なのか漠然としていて・・・・・・でも、今やっとわかりました。・・・・・私は、清水先生の存在を知ってから、現在一般に知られている人形劇のイメージとは異質なものが日本の人形劇界にあったことに気がつきました。先生は、「ひとみ座」の創立者でありながら、それを捨てて新しく「人形の家」という劇団をお作りになり、人形劇の黄金期を塗り替えて来られたのではないでしょうか?「アッポしましまグー」には、そういった清水先生の経てきた軌跡が投影してるのを感じます。渋谷さんもその感覚に惹かれたのでは・・・・・
清水 それより少し前、私は「人形はモノである。」というコンセプトからいろいろな素材やフォルムや要素を取り入れ始めていた。極端なものでは"既成の日常生活のモノ"が動いていたり、それも擬人化など一切しないし、ストリーもない。また、プラスチックの様々な色の板をくり抜いたシルエット風のキャラを、煙で満ちている舞台上で音楽と照明の変化だけで動かしてみたい、とも考えていた。今にして思えばモノを霊とか魂とかまで考えていなかったことを反省もしているけどね。
カワ 先生が演出なさり、秋山邦晴さんが音楽、片岡昌さんデザインの「マクベス」は新劇界の方々からも注目を集めたらしいですね。杉村春子さんも観にいらしたとか・・・・・それと、渋沢龍彦さんがしょっちゅう観にいらしてたのは、この頃ですね。
清水 いや、渋沢さんがよく観に来てくれていたのは、ひとみ座が鎌倉にあって、小さな集会所とか小さな広場とかでやっていた頃だね。無論、鎌倉にいた10年間は付き合ってくれてはいたが、芝居を観に来てくれることは、以前ほどではなくなっていた。そして鎌倉を離れて僕達が川崎に住むようになってからは、かなり疎遠になっていった。だが、それがどうしてなのかを、僕は知っていた。1956年の夏、品川公会堂で中江隆介作「絵姿女房」をやったのを観に来てくれて一緒に鎌倉へ帰る車中で渋沢さんは、「近頃のひとみ座は、まるでプークだ。初期の頃のオリジナリティーはどうしたの?」―――この批判ほど、私を変えたものはない。
「鎌倉の元男爵・都築邸の迎賓館をアトリエにしていた頃」
1958年頃
片岡昌 氏(向って一番左)
須田輪太郎 氏(向って左から2番目)
清水浩二 氏(向って左から3番目)


「鎌倉にいた頃」1954年
渋沢龍彦氏(向って左奥)
清水浩二氏(向って右)
カワ 渋沢さんがおっしゃった言葉は今までどなたにも、話さなかったのですか?・・・・・・・
清水 そう・・・・・この場で長く話す内容ではないので飛ばしますが、その渋沢さんの批判が僕を変え、ひとみ座を変え、あの名作「マクベス」を生み出したと思っている。そして、僕を変えるもう一人の男・高山英男の登場は1965年、そして「人魚姫」は1967年公演となる。その高山英男と出会うまで、僕はひたすら前衛的人形劇を目指していたから、観客も文化人やインテリ層が中心でした。しかし、ある時、高山英男という人に出会って大きな影響を受けました。彼は、人形劇の人ではないんだけど、大衆的な文化を大切にしたいというのが基本にあり、日本の子供文化を動かした人の一人だと思います。しかも彼には前衛的なものも理解する柔軟さもある。そういう資質をもった人は少ない。僕は高山さんと出会うことによって、前衛と大衆性とを結びつけるようになったのだと思っている。彼は大衆のニーズをキャッチする優れたアンテナを持っていたから・・・・・・
カワ 「ひとみ座」を離れて「人形の家」を創るというのは、高山先生の影響だったのですか?・・・・・この時期はどんな感じでした?

高山英男 氏
清水 「ひとみ座」時代と大きく変化したのは、客層です。今まで人形劇を観に来なかったような層、つまり、ファッションのことや遊ぶことにしか関心のないようなオシャレな女の子たちが「人魚姫」で沢山集まって来た。そして人魚姫のブロマイドはどんどん売れるし、ポスターは貼ってもすぐに盗まれていた。宇野さんと辻村さんの魅力でしたね。
カワ コシノジュンコさんも「人魚姫」の観劇評を1969年劇団人形の家公演「小さい魔女」のプログラムに書いていらっしゃいますね。
清水 そう。一寸紹介したいけど、長くなるのでまた機会があったら・・・・・・
カワ ・・・・・ところで、その時代には他にどんな人たちが人形劇に参加して来ました?
清水 その時代は人形劇人だけの集まりではなく、広いジャンルから様々なスタッフを集めるような方向で、「辻村ジュサブローさん(現 辻村寿三郎さん)」、「川本喜八郎さん」、「友永昭三さん」、「金森馨さん」、「朝倉摂さん」、「上野紀子さん」、「寺山修司さん」、「羽仁進さん」、「鈴木忠志さん」、「粟津潔さん」、「秋山邦晴さん」、「林光さん」、「渡辺晋さん」、「久里洋二さん」、「真鍋博さん」、「広末保さん」など多士済済であった。
カワ その頃はジャンジャンとかパルコとか、当時の若者が集まるような場所で人形劇が上演されてましたね。私はまだその頃は、劇場に通うことがない時期でしたが・・・・・でも、「新劇」という演劇雑誌に大きく「劇団人形の家」の「桜姫東文章」の記事が載ってまして、ものすごく目立ってたのを記憶してます。三国連太郎さんと白石加代子さんが声の出演をなさってましたね。私が観ようとした時にはもう終ってました。
清水 あれは、5日間しか公演をしなかった。だけど、その割には、いろいろな人が観に来て下さった。・・・・人形の写真は美術出版社からジュサブローさんの作品集が出ていて、かなりその中に入ってますよ。あと、音楽は秋山邦晴さんで・・・・マクベスの時も秋山さんですが、あの時の音楽の録音テープが出て来て、日本近代音楽館に奥様の高橋アキさん(ピアニスト)が寄贈しています。「再演をしてほしい」という声が多いが、登場人物も多く人形製作だけでも相当なものだし、和物なので所作をつけるのに相当な時間を要する、いろいろな意味で大きな犠牲を払わないとむずかしい。

劇団人形の家「桜姫東文章」プログラムより
1973年
人形デザイン・製作 辻村寿三郎
舞台装置 粟津潔

劇団人形の家「夏の夜の夢」舞台写真より1977年
(パック)
人形デザイン友永昭三 氏
舞台装置 朝倉摂
カワ 何年か前に「人形の家」でも「桜姫東文章」のプログラムと「マクベス」のプログラムコピーをあの記念館に寄贈しましたね。清水先生の作品の中でも特に話題作として評判になった2作品ですね。上演した日の入場者リストを見ると淀川長治さんとか坂東玉三郎さん、有吉佐和子さんとか、人形劇を観るようなタイプじゃない方々のサインがありました。郡司正勝さん、服部幸雄さん、戸部銀作さん、泉眞也さん、舞踏の大野一雄さん、寺山修司さん、田中一光さん、勅使河原宏さん、太田省吾さん・・・・その他にもいろいろと・・・・・大谷直子さん、大山のぶ代さん、東恵美子さん、杉村春子さん、鈴木光枝さん、河原崎国太郎さん、アキコ・カンダさん、手塚治虫さん、藤子不二雄(F)さん、石の森章太郎さん、りん・たろうさん、小松幹生さん、鈴木忠志さん、茨木憲さん、落合清彦さん、南博さん、乾孝さん、山本二郎さん、岡田陽さん、筒井敬介さん、西尾忠久さん、中井英夫さん、長田弘さん、益田勝実さん、西山松之助さん、如月青子さん、杉野橘太郎さん、宮尾しげをさん、藤浪与兵衛さん、高橋アキさん、佐々木守さん、南江治郎さん、久野収さん、結城孫三郎さん、竹田扇之助さん、笠原伸夫さん、和気元さん、岡田恵美子さん、富田博之さん、内垣啓一さん、瀬戸内晴美さん・・・・たった5日間という短期間に・・・・・よくこんなに大勢の先生方がいらっしゃいましたね・・・・作品の質の高さと注目度がわかりますね。・・・・・それと、瀬戸内晴美(瀬戸内寂聽)さんが清水先生の演出されたこの作品の事を「早稲田文学」で5ページにわたって論じていらっしゃいますね。人形劇が他のジャンルの演劇を含めた中でここまで注目されたり、他のジャンルの人に影響を与えた事はなかったのでは?玉三郎さんがご自分で「東文章」を取り上げるようになったのも、この後からですよね。
清水 歌舞伎ではそれ以前は、「桜姫東文章」は余り上演されてなかった。国立劇場で雀右衛門さん、守田勘弥さんでやっている位だが・・・。一部分の上演は、三島由紀夫さん補綴・演出でかなり以前に中村歌右衛門さん主演でやっておられましたが・・・・・。
カワ 考えてみると、この時期のことを包括した人形劇の流れのような資料がありません。・・・・・清水先生の演出された舞台(人形劇以外)を拝見している時に、瞬間的に「黄金期」の作品にもあったのではないかという感覚があって、ゾクゾクすることがあります。多分寺山修司さんがずっと清水先生のファンでいた事や、寺山さんが先生の事をお書きになったのを読んでいると、私も同じことを感じてるんじゃないかと思います。それに、当時の観客も。・・・・・・寺山さんは、こんな風にお書きになってましたね。「見た目はまったく等身大のように見えながら、その内部の空間がまったく等身大を倒錯しているというところが、清水浩二の人形劇をはじめて見たときからの驚きだった。」と。・・・・・私はたまたま清水先生とお話する機会があり、人形劇というか、俳優ではなく造型物を主体にした演劇を創る面白さや、可能性を知る事が出来ました。・・・もっともっと、清水先生が経てこられた「黄金期」のことを知りたいと思います。・・・・先生、また今度お話を・・・・・
清水 まあ、考えてみましょう。・・・・・ところで、時代がその時代時代で人の気を惹くようなモノ。及びそういうモノを打ち出して来るヒト。そういうヒトに頼めばそういう時代が描かれて来ます。だから当時の作家で言えば、寺山修司なんかもそういうヒトの一人なわけよね。一般の人より一寸先を歩いている人を捕まえなければね。
カワ じゃあ、「人形の家」の立ち上がりの時は、そういう感覚でスタッフを選んでらしたんですね。「人形の家」という名前も寺山さんにつけて頂いたそうですが、初めてお会いになったのはいつですか?
清水 寺山さんは「ひとみ座」で「狂人教育」をやった時・・・・・初めて会った時、彼は26才だった。
カワ ああ、ああ、そうですよね。「狂人教育」の生原稿のコピー最近読んだのに、うっかり忘れてました。
清水 ・・・・・
カワ ・・・・・アーやっぱり、どんどん過去に遡ってお話をお伺いしたい気持ちが強くなります。でも、話が横道に反れる・・・・・
清水 「狂人教育」は、ひとみ座で「マクベス」をやると決めてから、「次、何やるんですか?」ってマスコミに聞かれて、・・・・・直感的に・・・・・「若い詩人3人」に本を書いて貰って、小品を3本用意して一挙に演ってみたら面白いだろうな、「詩と人形の共通性を魅力的に提示したい。」と・・・・・
(注:『俊英三詩人の書下しによる人形劇』作品名は、岩田宏の『脳味噌』、谷川俊太郎の『モマン・グランギニョレスク』、寺山修司の『狂人教育』)
カワ はい・・・・・
清水 で、若手の詩人じゃなきゃダメという事で、寺山修司と谷川俊太郎と・・・・・もう一人は岩田宏にしたの。・・・・・岩田さんていうのは、私等と同じ鎌倉にいて、彼が外語大の学生の頃から知ってる。本名は小笠原豊樹っていって、レイ・ブラッドベリーの翻訳なんかもしていて・・・この岩田と寺山と谷川と、当時まだ30代になってるかなってないかだよね。その3人に頼んだわけ。だから、寺山さんてどういうモノを書いてどういう魅力があるかは知っていた。人柄もいい人ですしね。で、結局「ひとみ座」を僕辞めた後で、アニメの仕事をちょっとやってたワケだけど、東京ムービーっていう会社で。その会社の名前、僕がつけたんだ。ひとみ座の名前も僕だけど。ムービー社長の藤岡は「ひとみ座」時代に営業やっていて、僕を支えてくれてた男。だから、恩返に名前をつけてやったり、何本か演出もした。
『俊英三詩人の書下しによる人形劇』公演後、若手詩人3人との合評会1962年
左から4人目より
谷川俊太郎 氏、清水浩二 氏、岩田宏 氏、寺山修司 氏

「ロサンゼルスの藤岡邸にて」1987年
(日米合作アニメ「リトル・ニモ」打ち合わせの合間に)
向って左 藤岡豊 氏
右 清水浩二 氏
カワ 「東京ムービー」の名前を!・・・演出作品は「ど根性ガエル」ですか?
清水 いや、最初のは「ビッグX」ですよ。手塚治虫さんの・・・・・
カワ ああ・・・・・「ビッグX」の何やってたんですか?
清水 初めのうちは演出。あと、文芸のシナリオチェッカー・・・・・
カワ 演出は何本位ですか?
清水 5本位しかやってないと思う。あとシナリオのチェッカーやってたらね・・・・・高山英男に「清水さんはアニメやってるより、やっぱり人形劇やってて貰った方がいいように思うけども・・・・・僕で役に立つならやりますから・・・・・」
カワ そう言えば、「人魚姫」(劇団人形の家)の制作のヘッドが高山先生になってましたね・・・・・清水先生の人形劇に力を入れてたんですね。
清水 そう、ありがたかったよ。そして、人形劇復帰の第1作に何しようかと考えた末に「人魚姫」をやった。「人形の家」でね。ウチの奥さんに「台本は寺山さんで行きたいけど・・・・・」って言ったら「『人魚姫』っていうのは女の人好きだからいいんじゃないかしら」って言ったんだ。高山さんも賛成してくれた。
カワ その時に寺山さんが「劇団 人形の家」という名前をつけて下さったわけですね。・・・・・・
清水 そう。で、「『人魚姫』でちょっと寺山にあたってみるか」っていうんで、寺山に言ったら、知らなかったんだよ!彼「人魚姫」の話を。
カワ エッツ!知らなかった!ギャハハハハ・・・・・・(寺山さんの言動に関する、あるエピソードを思い出してしまった。)
清水 「こりゃ、えらいこっちゃな」と思って、それでアンデルセンの文庫本を急ぎ買って寺山にプレゼントして「この中に『人魚姫』っていうのが出てるから読んどいて下さい。で、気に入ったらこれで台本を書いて貰いたいんだ。・・・・・寺山さん流に書いてくれればいいんだから」と。
カワ ハハハハハ・・・・・
清水 そしたら、さっそく書いてくれたよ。そういう風に仕事っていうのは、いろんな人がね、「それをやると幾らくれる」とか「私の名前大きく出せるなら」とか、そういうのじゃなくって、割合友達的に何か喋ってて、その中からポッと出てくるみたいなことってあったのよね。昔は。
カワ 今、そういうの少なくなって・・・・・
清水 ・・・・・それで、また「アッポしましまグー」に戻るけど、今度は声優さんはどうするか、音楽はどうするかっていう所で、また問題が出てくるんだよ。
カワ どんな風に?
清水 その当時、いずみたくのとこに脇田っていう専務がいた。で、脇田さんは、たくちゃんとこを離れて、自分で会社を起こすって言って・・・・・まだ、会社は起こしていないで、下北沢で半分遊んでいた。その脇田さんのとこに相談に行ったんだけども、なんかあんまりパっとしない。いずみたくに頼むのなら、たくは僕の鎌倉アカデミアでの同級生だから、脇田さんを通さなくたって、たくちゃんとは、話出来るんだけど、結局、「たくちゃんじゃなくて、誰かいないのかな」って困っていると、NETの方から「横山菁児さんじゃダメでしょうか」って言って来た。
カワ それが、横山先生との出会い?
清水 ちがう!
カワ エーッ!じゃ、いつですか?横山先生との出会いは・・・・・
清水 僕、「ひとみ座」にいた時にNETの学校放送部から幼稚園の子供たちの生態っていうのかな、幼児が遊んでるとか何か習ってるとかいう様子をフィルムに収めて放送していくっていう企画があって、僕、それの構成を頼まれたんだよ。ドキュメンタリータッチで。但し、一人だけ名子役を園児の中にもぐり込ませることを条件にしてね。
カワ 何ていうタイトルの・・・・・
清水 うーん・・・忘れた。その企画の時にNETが音楽にもってきたのが、横山菁児さんだった。
カワ 横道にそれますが、その作品の評判はどうでしたか?世間一般の・・・・・
清水 ハハハ・・・イヤー、それ程じゃなかったんじゃないの?覚えてないよ。一般的でもないし・・・・・
カワ そうですか。
清水 その番組の時、私の助手の長浜忠夫くんっていうのがいたんだけど、・・・・彼もその時は「ひとみ座」にいて、その後やめて、「巨人の星」とかサ、「ど根性ガエル」とか「ベルばら」とか「勇者ライディーン」とかの監督やったけど・・・・・NETの「幼稚園児」番組の放送の時に局の放映係がトチって音が出なかった。それを長浜が怒り、私の知らないうちにNETに電話して怒鳴ったらしい。・・・・局の担当は西合ちゃんっていう人だったんだけどね。
カワ ええ・・・・・
清水 その西合ちゃんを「アッポしましまグー」の渋谷プロデューサーがディレクターに選んで連れて来たの。びっくりしたね、もう。
カワ ウワー、ものすごいシチュエーション!ハハハ
清水 そして、もう一人、僕の人形劇での教え子の小松華寿実さんっていう女性のディレクターもいた。
カワ ああ、ホッとしますね。でも西合さんはその時やっぱり不機嫌でした?
清水 ハハハハハ・・・・・・ちょっと、ヨソヨソしさがあったかなあ。
カワ やってくうちに、そういうのはなくなりました?
清水 もちろん!・・・・・それで、音楽の話に戻るんだけど、「どうしようかな」って言ってたら、西合ちゃんが、「横山さんでいいんじゃないですか。清水さんも知ってらっしゃるし、僕もよく知ってるし、この際どうでしょうか?」「じゃ、それで行きましょうか」ってことに。・・・・・それで、今度は声優さんの話になって、野沢那智さんでひっかかった。・・・・・「野沢那智じゃダメですか?」って僕が言ったら、「うーん・・・・」、「でも、ナポレオン・ソロのイリヤって役なんか、けっこう僕は好きでしたけどね。芝居うまいし、いいんじゃないですか」って言ったのね。それで、結局、「清水さんが、頑張るから・・・・・」って、ことで通ったワケだ。
カワ ハハハハ・・・・・

 

『夏の夜の夢』(劇団人形の家)の人形と共に
1977年
野沢那智 氏
※人形デザイン・製作は友永詔三氏

清水 ・・・・・それから、「グーをどうしようか」って話が出た時、僕は「アッポしましま」をやる以前にフジテレビでやっていた「1チュー3大作戦」(「ワンチュースリーだいさくせん」と読む)っていう番組を・・・・・石の森章太郎の人形デザインで、当時のコメディアンや演歌歌手とかが、生身で出て来て人形と絡むもので・・・・・台本は井上ひさしと山元護久。その人形演出を私がやってたんだが、そこに出演していた大泉滉さんが、いつも早々と来ているんでね。「大泉さん、いつもお早いですね」と声をかけたら、「ええ、もう、とにかく考え直して真面目に生きなければと思いまして」っていうのよ。・・・・・
カワ 「考え直す」というと・・・・・それ以前はどうだったのですか?
清水 又聞だけど、ひどかったようね。だから干されたのよ。大酒を飲む。女性にはだらしがない。それで殆どのTV局から総スカンくって、仕事がなかったのよ。「1チュー3」はやっと、ありついた仕事だったの。それで僕は、「グーは大泉滉さんが良い」って言った。遊び心も解るし、人間を斜に見ることも出きるし、飄々としてて面白い役には合うからね。

大泉晃 氏とアッポちゃん
カワ 誰も反対はしなかったですか?
清水 しなかった。で、「アッポしましま」でも1年間位は実に誠実に早々と来ていたけどね・・・・・。「アッポしましまグー」って、最初は公開番組ですから、劇場でやってた。客を入れて、舞台の上にセット飾って、ちゃんと普通の芝居みたいにして・・・で阿部進さんが出て来て「おはよう」と言って始まって行くわけ。で、そのフォーマットが、何話まで続いたか今正確にわかんない・・・・・8話前後には違いないんだけど、・・・・・ところで、あなたは僕を良い書き手じゃないと思ってない?
カワ エーッ?
清水 僕って字を書くって好きじゃなかったし、文才もないし・・・・・
カワ なんですか?!・・・・・そうは思えない・・・・・
清水 イヤ、イヤそうなんだよ。だから「ひとみ座」時代に書いた舞台劇は合作も含めて6本しか書いてない。・・・・・43本もやってるひとみ座舞台作品の中で・・・たった6本しかだよ。演出の方は38本もやってるのに・・・・・。
カワ ・・・・・
清水 TVやイヴェントの物はもう少し書いているけどね。例えば、OTVっていう大阪TVのは・・・・・原作のあるヤツをTV用に書き換えたのが2本。NHKの名古屋JOCKってやつのが1本。それから、ダークダックスの「アヒルの国」っていうのにかんだんだけど、2年間だけ。毎年、11月の上旬にダークが中心で、黒柳徹子と横山道代と里見京子と3人が出て、あと谷内六郎さんがお絵描きの方で出てね。ダークが歌って、谷内先生が絵を描く。徹子の司会で。そのあとで人形劇を演る。・・・1回目の演目は、須田輪太郎の「お馬に化けた狐どん」っていう作品。これはね、賞を貰った作品で須田輪太郎の最高の傑作なんです。ただ、ダークさんとか黒柳さんでやるにはミュージカルっぽくしなきゃいけないというんで、僕が潤色・演出したけどね。
カワ そうですか。
「あひるの国」 1958年
清水 それから、日本テレビの連続人形劇「冒険だん吉」っていうのがあったけど、でも僕は本書くのきらいだからやんないでいたら、怒られて、当時電通のラジオTV局長でその後常務になった人に、「責任者のくせに何で本書かない!」ってメチャメチャに怒られた。・・・「私は本を書くの苦手でダメなんですよ」って言ったら「このウソつきめー!」って更に怒られて・・・結局、書かざるを得なかった。それで、脱稿したものを持ってったら、「面白い」ってことになり、「これだよ、これ!なんでお前は書けるのに書けないって嘘言うんだ!人にやらせて逃げようって言うのか?」って・・・
カワ ハハハ、今の時代じゃ考えられない・・・・今の時代とちがう!
清水 TVが、それ程権威なかったのね、あの頃はまだ。
カワ なるほど、書きたがる人は少なかったんでしょうか?
清水 「舞台の方が高級でTVは大したもんじゃない」っていうのがあったんでしょうね。大きな間違いだけどね。だから、TVをせっせと書くってこともない。テーマソングはいち早く書くけどね・・・・・
カワ ハハハハハ・・・・・そういえば、今もあの歌、印税がかすかに入って来てるのとちがいます?
清水 そうそう。それから、NHKで「おかあさんといっしょ」の中の、「ブーフーウー」と「仲よしおばさん」っていうのをやってたね。
カワ それも台本お書きになってたんですか?
清水 「仲よしおばさん」の方はね。・・・それも最初は書いてなかった。僕はただ、人形の演技のお世話で付いてるだけだったけど、・・・・・タイトルロールは往年の大スター轟夕起子さんですが「本が・・・・・・」って嘆いていらっしゃった。で、ディレクターと話をしてみようと思って行って・・・話しているうちに僕が台本を書くはめになってしまった。それを狙って行ったのではなかったのに・・・・・・
カワ やっぱり書けるからじゃありませんか。
清水 そしたら、轟さんがサア、絶賛してくれた。
カワ そう言えば、轟さんはひとみ座の「マクベス」の時に、マクベス夫人の声の出演もしてらっしゃいますよね。「マクベス」はどんな感じでした?
清水 うん。アフリカの原始美術に想を得た片岡昌の人形美術が話題になった。また、秋山邦晴さんの音楽もミュージック・コンクレートというシュールリアリズムのコラージュ音楽版で、今でいうシンセサイザーの走りのようなものを使って注目された。
カワ まさに前衛だったのですね。
清水 それと、レディ・マクベスを演じた宇野小四郎の呪術的と呼べるような演技のユニークさ。彼の人形演技でなければ効果の上がらないその発明に、僕は舌を巻いた。マクベスを演った輪ちゃん(須田さんの愛称)のガッチリしたリアリズム風の演技も評価してはいるが、小っちゃん(宇野さんの愛称)の先天的才能は、この前衛的で実験的な人形劇の創造にふさわしい今まで見たこともない人形演技の誕生だったと言っても過言ではないだろう。

「鎌倉の伊藤成彦 邸にて」 1955年頃
宇野小四郎氏(向って左)
清水浩二氏(向って右)
カワ いいお話を聞けて幸せです。ところで再び先生のことに話を戻しますが、・・・・先生と一緒にお仕事させて頂く度に思うのですが、先生はコンセプトを設定するのも凄くて、他のスタッフがびっくりするようなシャープな切り口を見せることがありますよね。それと、私はそれだけでなくてセリフに関してもかなり・・・・・・・細かいセリフにヒラメキがあって、日本のファミリー向けの作品の劇作家には少ない・・・文学的というかポエティカルな言葉使いで表現なさいますね。そうかと思うと「アッポしましまグー」でのコミカルなキャラクターも生き生きしています。
清水 そういうの好きだから。
カワ しましまとグーの喧嘩してるところとか・・・・・ハハハ・・・・先生はしましまみたいな感性をしていらっしゃるのでしょうか?・・・ああいうキャラクター、他の人には描けませんし、悪のキャラクターを強烈な存在感で描くのもお得意のようで・・・・
清水 うん。それは描きやすいんだよね。誰でもそうじゃない?
カワ いや、誰でもは書けない!ああいう風に詩的には書けません。
清水 そうかなあ・・・・?詩的なんて持ち上げすぎだよ。
カワ いつも先生のお書きになったものを拝見する度に驚いています。・・・・アッ、どこまで行きましたっけ”アッポしましまグー”は・・・・?
清水 ・・・えーと、声優を決めるのも一寸大変だった。音楽は横山さんでスンナリ決めたが、音楽の録り方が・・・業界でよくいう春夏秋冬っていう録り方。・・・それは、あらかじめ何パターンか決めて、――例えば、スリリングな音楽とか、コミカルな走りだとか・・・そういうメニューを書き出して50曲とか60曲とかやや長めに録っとくワケ。それで、どこで切ってもいいようにしててコーダーみたいなのをかぶせるとか・・・ショッキングコードを加えるとかして・・・結局予算少ないからそういう録り方してたんです。脚本に合わせてオリジナルでその都度録ってたワケじゃないの。だけど、2年目位からは予算もアップしまして、まあまあ普通に録れるようになった。
カワ よかったですね。・・・でも、初期段階で決めたことが決定的だったんですね。音楽の横山先生の手際がよかったり、個性的で感性が合う声優さんをキャスティンできたりという・・・・先生の妥協しない姿勢がなかったらそうはならなかったでしょうし、その才能を信頼したプロデューサーやディレクターもすごい!!!!・・・・・一般的なTV人形劇からすると考えられないようなことも書けちゃうのが不思議です。
清水 ほとんど一人で書いてたもんだからね。何作か他の人のも入ってるけど・・・・・苦しまぎれにタブーを犯したりしてたんだよ。
カワ 特に後半のシリーズは、時代の流れや、特に演劇界の流行などを反映しているような気がします。あと、何と言っても最終回が・・・・・とても気になります。ある日、しましまが迷い込んだ未知の町の上空に、突然飛行体が降下してくる。それを町を守る人が機関銃で撃つ。すると、白い花粉のようなものがあたり一面飛び散って、・・・・・・・・・「コンドルは飛んで行く」のBGMが流れて来て、ナレーションが静かに入ります。「いつの間にか、みんなはその場でスヤスヤと眠り始めました。・・・・・その夜はどういうわけか、空には大きなお月さまが昇って、眠り続けている人々を明るく照らしました。そして、その次の日も、またその次の日も・・・・・いつまでも、いつまでも眠り続けるみんなのために、お月さまは明るい光をそそぎ続けました。『アッポちゃん、シマシマ君、グーしゃん、静かにお休みなさいね。』お月さまは、そんな風に言っているようでした。」そしてあたり一面真っ白になってしまったその謎の町に、しましまを探して妹のコマコマちゃんがやって来る。「しましま兄ちゃんはどこにいるの?兄ちゃーん。兄ちゃーん・・・・・」って探しまわる。・・・・・最後にコマコマは、眠っているシマシマたちを見つけ「起きてよ!起きてよ!」って揺り起こそうとするんだけど、誰も目がさめない。・・・・・そして、そのままで終わりになるんでしたね。この最終回のテープ聞いて、私はその後が気になってしょうがない。コマコマの「シマシマ兄ちゃん!」っていう声がいつまでも心にひっかかって、・・・・・。何か・・・・この作品を中心になって仕掛けてた人はただ者ではないなという感じを受けました。・・・・・・番組が終る時って、その時代の中でも何かが一段落したんでしょうね。・・・・スポンサーが降りてしまったという残酷な現実ももちろん反映してたでしょうけれど・・・・・・それと、ほとんど一人の作家が書いていたけれど、そこに参加しているスタッフ全員のこだわりみたいなものが写真を見ていると伝わってきます。・・・私は、画像なしで、音と台本だけで知った「最終回」がずーっと頭の中にあって、どうにかしてシマシマたちの目を覚まさせたいと願ってきました。そして、時間がたって、やっと今その時が来たというか・・・・・予感がするのです。・・・・・
清水 ありがたいファンの話を聞いて、胸打たれました。・・・・・ありがとう。
カワ 他のライターの方が書いたのもありましたね。初めの4ヶ月位は先生一人でしたが、その後・・・・・
清水 小山内美江子さんとか、井村淳さんとか、辻真先さんのこと?
カワ そうです。
清水 うん。・・・小山内さんはその当時でもTVの世界ではそれなりの人だった。「金八先生」でグーンと有名にはなられたが、・・・・・辻真先さんはアニメでそこそこの物を書いてた人ですけど、その後、若い人向けの小説家として名が広まりましたね。
カワ どうして、寺山さんには頼まなかったんですか?
清水 「アッポしましまグー」っていうのは寺山さん向きじゃないから。それに低予算だったしね。それとテーマソングももう出来ちゃってるし、失礼な気がして・・・・・失礼と言えば・・・・・僕、小山内さんにも随分失礼なこと言ってたね、当時は。若気の至りで。
カワ 設定のコトですか?
清水 そう。これじゃダメとか。これはこういうキャラクターですからとか・・・・・
カワ でもTVの連続物だから、あとから参加する人は覚悟してたでしょう。
清水 そういう面もあってか、割合素直に聞いて頂いたですけどね。
カワ でも、そのお陰で今になってみると「こんな人が!」みたいな・・・・・・なんて、楽しめます。
清水 最初はね、”何々が欲しい”っていうんで、しましまの欲しがるものを見付けて行けばよかった。それで1話出来ちゃうから。例えば「帽子が欲しい」って言ったら、帽子にまつわる話で5日間まかなえた。1回の中身は正味12分なので・・・・・1週5日分で60分 物です。
カワ ええ。
清水 で、次に「靴がほしい」とか「マントが欲しい」とか「パラソルが欲しい」とか「時計が欲しい」とかでやってける。だけど欲しいってものがだんだんなくなって来ちゃってね。・・・・・・・あんまりドデカイものじゃ困るからね。ビルディングが欲しいだとか、そんなのは無理なんだから。
カワ ええ。
清水 そして、しましまの欲望を刺激しないものとか、アッポしましまグー村に存在するリアリティのない物も使えないので、欲しいものがネタ切れになるとね、その次は「何とかになりたい」シリーズを考えた。・・・・・・しましまは、何か見るとシビレてすぐそれになりたがる。「イージーライダー」っていう映画を見たら、興奮しちゃって、自分もオートバイを作ってキャプテン・アメリカになり・・・・・それに乗ってぶっ飛ばしてゆく。と・・・・・「騒音反対!」ってアッポちゃんとグーにデモられちゃって、しょうがなくて田舎へ行く。するとぶち猫のブッツが畑耕してる姿に今度はシビレて、畑仕事をしてみるが、長続きはせず、「じゃブッツさん、オレは町の方に用があるんで・・・・・」と言ってふと見ると、乗って来たオートバイが消えている。盗まれてるんだ。で、話は犯人探しへと展開して行く。
カワ ハハハ・・・ぶち猫ブッツって、コトバが訛ってる田舎猫で、谷村昌彦さんの声でしょ?

しましま狼とぶち猫ブッツ
清水 そうだよ。で、なりたいもの、その「○○になりたい」シリーズもだんだんなくなってくるから・・・・・また苦しくなってくる。そして次には「○○さんに会いたい」シリーズもやり、大テーマがあってそれに基づいてモチーフさえ見つけ出せばいいということも・・・・だんだん出来なくなって来た。そうすると、あとはよくある手で「雛まつり」だからお雛様にまつわる話とか、「七夕」だから七夕にまつわる話とか・・・・そういうのあるじゃない?夏は海の話とかそういう風なもので、一つの何かで貫かれてるんじゃなく、その都度その都度、1話づつ考えて行くようになって行って、どんどん辛くなって行くという事だよね。
カワ 1話づつ変えると言えば、スタジオのアッポしましまグー村で撮った写真で、中村晃子さんとか、カルメン・マキさんとか・・・・・可愛いくてカッコいいですね・・・・その他にもいろいろな方がいらっしゃたとか・・・・・・
清水 ゲストとして、アントニオ猪木、赤塚不二夫、大泉滉、野沢那智、加藤登紀子、林家三平さんなどにも出て頂いた。でもやっぱり一人で書くのは・・・。
カワ それで他のライターの方にも・・・となったのでしょうが・・・・・・・・。そう言えば、初期の頃の「欲しいシリーズ」ので、「靴が欲しい」という回のテープを聴きました。・・・・その時の放送(TV)を見たかどうかは思い出せないんですけど・・・・・アッポから靴を貰ったしましまがその靴を「耳に履く」って言って、ホントに耳に靴をかぶせて小舟に乗って、湖の真ん中で釣をしてるんですね。私はそのムードというか、なにげない風景が好きで。耳に靴を履いたしましまが気持ちよさそうに小舟で揺られてるっていう・・・・・しかも、岸ではアッポちゃんとグーが「嵐が来そうだから」ってしましまを心配して「しましまさーん!」て呼んでるのに、しましまは聞こえなくて、知らん顔してる。こういう脳天気ぶりが私はすごーく好きです。
清水 あれは2作目か3作目だね・・・・・
カワ 那智さんのセリフって初期と半ばと後半と違いますよね。ある時点で急に生き生きして来る。そしてだんだん年令が高くなってくるような・・・・・・
清水 それは、台本もそうなってるんだろうと思うけどね。・・・・・結局、幼児番組の筈がいつの間にか次第次第に大人番組みたいになっていった。
カワ ハハハ・・・・・最終回に近づくにつれて、だんだん、しましまは寅さんみたいになってきて、アッポちゃんはしましまとグーのお母さんになってますね。・・・・・・しましまってお金に困ってる様子はないですよね。時々、「なんでも屋のあーべ」から何万もするものを買い込んだり・・・・「愛のロープ、2万円」とかね・・・・・労働しても、本気で働けないっていうか、いつでも幻想の中に生きてるような人物なんですよね。
中央・やくざの親分に扮したあーべ(阿部進氏)
清水 そうそう。それで僕、一本だけ、それをテーマに書いてますよ。『おかしなしましまさん』というタイトルで、その中でグーが「しましまさんも、遊んでばかりいないで、たまには自分で働いてお金を得たらどうなんですか」って意見します。
カワ ええ。
清水 そこでしましまも一念発起して、移動風呂屋っていうのを始めるわけね。大八車に湯船を乗っけて・・・・・小判風呂って知ってる?
カワ まーるい?
清水 そう。あれを乗っけて、お湯をいっぱい張って、炊き口に薪をくべ、予備の薪もそばに置いて・・・・・
カワ 時代ですね。今だったらないですよね。
清水 その風呂に、でぶのゴロヒゲ猫が最初の客で入った為にお湯がこぼれて殆ど無くなるわけよ。薪はあるけど、予備の水がない。
カワ 水が・・・・・
清水 やたらデッカイからね。ハハハ・・・・・ザーッって・・・・お湯の大半がこぼれちゃってね、その上・・・・・
カワ ハハハ・・・・・・
清水 「クロ、お前も入れ」って言って・・・・・子分のクロ猫を一緒に入れて、間もなく自分が出ると、お湯は底の方に少ししか残ってないので・・・「お湯がない、お湯が無い」って騒ぎになり・・・・しましまは大失敗。大変な思いをして、貰ったお金はたったの20円しかないって有様・・・・・。
カワ ところで那智さんは、初期の頃、しましまを悪者としてとらえられていたのでしょうか?
清水 そうかもね。初期の本はすぐ「喰っちゃうぞ」とか言ってるもんね、実際に。
カワ どの辺りから、変わったんでしょうか?
清水 それは、僕がキャラを少しづつ変えたんだよね。初めのうちは、脅かしてアッポちゃんに言う事聞かせようとしていたけど、だんだんアッポちゃんとグーが遊んでるのを見ると、仲間に入りたくなって来て、二人のまねっこして何かやって見ると・・・・・失敗してひっくり返ったりして、大笑いされて口惜しがる。グーあたりが、「しましまを誘って失敗させてやったら、どんなに面白いだろうか」って言うんで、挑発するようにしていった。
カワ 仲々悪いヤツなのね、あひるのグーは・・・・・・
清水 そうそう、それにのっかって、しましまは大失敗を繰り返す。そうすると、グーが「アッポちゃん、見て見てっ!しましまの奴がね・・・・」って言って、しましまをオカズみたいにして、グーとアッポで大喜びしてるとか、そういう風に変わってくわけ。だから、テーマソングの2番には「いじめるのって面白い」っていう歌詞がある。いつもそういう場合は、アッポちゃんがそういう発想するよりも、グーが仕掛ける。70%位は・・・・・そもそも「意地悪ごころグーごころ」って歌ってますからね。
カワ そういう歌ありましたっけ?
清水 あるよ。『グッタン・グタント・グッググー』っていうのの中に。
カワ ああ・・・・・!あの中に 「♪意地悪心グーごころ」・・・・キャハハハ・・・・可笑しい!じゃあ、食べられそうな弱い時もあるけど、一寸意地悪な気分になっちゃう時もある・・・・
清水 そうそう。それで、気分よくなると「♪ヒットソングが口をつく」とかネ・・・・
カワ そう言えばオリジナルの歌の他に、あの時代に流行っていた歌を沢山使っている。これも「アッポしましまグー」の大きな特徴ですね。でも、大泉滉さん(グーの声をやってた)って、歌っても歌らしくないでしょ?
清水 ハハハ・・・・でも、そこが105才のグーの面白いところでもある。
カワ セリフの中で鼻唄歌っても、それが歌だなんて思えないのもありました。でも、『グッタン・グタント・グッググー』はグーのテーマソングだから、スタジオで息もたえだえに緊張して一所懸命歌ってるのが伝わって来て、好感が持てますね。・・・・・
清水 ハハハ・・・・・・
カワ 作曲の横山先生の前だから、よけい緊張してたんでしょうね。それ、想像するとますます可笑しくって、可愛い・・・・・
清水 まあね・・・・・・「アッポしましまグー」っていうのは、不思議なことに、ディレクターもそうだしカメラマンとか照明さんとかに人気あったね。
カワ 『アッポ〜』に加わりたいというスタッフ希望者がいっぱいいたそうですね。
清水 そうそう。それに局のアルバイトに来てる女の子もひとたび中へ入っちゃうとファンみたいになっちゃって・・・・・いつまでも居たいワケ。でもバイトだから配置変えられちゃったりするんだ。このことからも解るように、結局やってる人たちの間では、ものすごく愛されていた番組だったと胸を張って言えるよ。
カワ 台本やテープを聞かせて頂き、私も魅力に引き込まれました。幼児物なのに、よい子を主役にしてないし、主役同士が大げんかする・・・・・でもアッポしましまグーの3人は、家族以上の固い絆で結ばれてる。今の時代にこんなに深い友情で結ばれるっていう事はないような気がします。その世界に触れるだけでハッピーな気分になれますね。キャラクターが生き生きして、存在感があるので、思わず「アッポしましまグー村」の住人になりたいと思ってしまいます。・・・・・アッという間に、時間がたってしまいました。・・・・・・今日のお話で、先生が前衛と大衆性を結びつける方向で作品を創ろうとしている時期があり、「アッポしましまグー」にはその指向が反映していたという事がわかりました。また、お話をお聞かせ下さい。
清水 わかりました。
カワ 今日はありがとうございました。
インタビューはここで終わりますが、清水先生が過ごされて来たこの夢のような時代のことをhttp://ningyonoie.com/zukan/『思い出のキャラ図鑑』で引き続きお話し頂くことになりました。
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