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           第1回  「はじめに」
清水浩二 Koji Shimizu



仙台市の筆者清水浩二の生家です
仙台市にあった筆者清水浩二(本名・渡辺信一)の家。
※写真に写っている人物はお手伝いさんと弟。


 一九四六年(昭和二十一年)四月一日読売報知新聞の「鎌倉大学、学生募集」の広告を見た。
その広告の中で私の目を引いたのは、「演劇科」の三文字であった。「演劇科なんて、遊んでいられそうな所だナ、きっと。僕は勉強嫌いだから、そういう所なら向いているだろう」そう勝手に決めて父に「鎌倉大学っていうのが出来て、そこに演劇科があるんだけど、そこを受けてみても?」と聞くと、医者でリベラリストの父は「ああ、いいよ。」と二つ返事であった。
  こうして私は五月六日の開校式に出席し、演劇科一期生となった。同期生には、いずみたく、勝田久、川上衆司、加藤茂雄、後藤泰隆、渋谷竜、津上忠、浜野純二、広沢栄、坊城俊周、前田武彦、松平健、増見利清などがいた。また、鎌倉大学の教授は三十三人、講師は八十七人、うち教授の主なところ十八人を列記すると、青江舜ニ郎、飯塚友一郎、片岡良一、邦正美、加藤衛、久保舜一、西郷信綱、三枝博音、重宗和伸、菅井準一、中村光夫、野田高梧、服部之總、林達夫、三上次男、村山知義、吉野秀雄、吉村公三郎。そして、講師の主なところ二十七人を紹介すると、出隆、内村直也、宇野重吉、大仏次郎、小場瀬卓三、加藤道夫、河竹繁俊、木下順二、五所平之助、渋谷実、神西清、薄田研二、千田是也、高見順、豊田四郎、八田元夫、久板栄二郎、土方与志、檜健次、平野謙、細川ちか子、八木保太郎、山田肇、山本嘉次郎、山本安英、吉田健一、吉田謙吉。実に錚錚たる顔ぶれと言えよう。
  しかし、当時の私には、その偉大な人々の大半が"知らない先生"に過ぎず、驚きも感激もなかった。そのようなことより、私は自分の良い塒(ねぐら)を見つけることに集中していた。そして見つけたのが、鎌大(鎌倉大学の略)が教室にお借りしている浄土宗関東総本山の光明寺の本堂の横前に建っていたバラックである。本堂修復工事の為の飯場である。
  幸い、最初の講義(五月十四日)の時に隣り合わせた江田法雄(のりお)君が、「光明寺の住職さんとぼくの父は知り合いだよ。」と言ったのを「こいつあひょっとすると・・・あのバラックを・・・!?ね、江田君、あの本堂前の掘立小屋、二人で借りて住まないか?」忽ち話がまとまり、お住職にアポを取り、「次の日曜にでも・・・」ということで、五月二十八日(日曜)に住職宅へ出向き、借家の話成立。月々家賃五十円支払うこととした。
光明寺本堂の写真です
※写真の中央が現在の光明寺本堂。
 向かって右奥の辺りに「耽美荘」があった。
  ところで、平成九年三月三十一日発行の「青春・鎌倉アカデミア」二二九頁には、文Iの匿名で「境内の小屋に不法入居し、・・・」とあるが、<不法入居>ではないことを、ここに明らかにしておく。

  かくして、六月三日(日曜)に私が入居し、江田が一週間遅れ位で引越して来た。二人は年令を偽って入学したいずみたく(今泉隆雄)と、一七歳の前田武彦を除いた演劇科一期生の中では増見利清(俳優座の演出家になった)同様の年少の方に属していたし、かつ二人共、前衛好きだったし、その後入居してきた渋谷龍さんは永井荷風や谷崎潤一郎ファンだったこともあって、この掘立小屋は「耽美荘」と呼ばれるようになった。名付け親は、たしか広沢栄さん(彼は後にシナリオライターになった)だったと記憶している。
  「耽美荘」----この小さくボロなバラックだが、ここに住むことによって私は、鎌大以外の鎌倉の人々とも付き合うようになって行く。そして「人形劇団ひとみ座」の母胎となった「劇団ひとみ座」を立ち上げて行くようになるのである。「劇団ひとみ座」のネーミングは、私が名付けたのだが、最初に「劇団アヴァンギャルド劇場」。次にアヴァンギャルド劇場では物々しすぎるので、「劇団目玉座」。これも当時の感覚からすると、ジャンプしすぎてるので、「劇団ひとみ座」となったことを参考までに付記しておく。(次回へつづく)

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